第17回角川ビーンズ小説大賞 ジュニア部門 グランプリ受賞作品『奇跡の歌声』
『奇跡の歌声』 東雲 紗来良
一.時間
わたしは、不幸だ。血を吐くような思いでただただ、その場に立っていた。どうしたらいいのか分からない。純白のコートを着た女の人の頭部から、じわじわと血が流れ、そのすぐそばでは大型トラックが横倒しになっている。純白のコートを着た女の人をわたしは知っている。わたしの母だった。わたしは目の前で、血のつながった人を、亡くした。
ピーリリリリ!!!
目覚まし時計が、けたたましい音でわたしを起こした。
目覚まし時計の音を止めるために、手探りでボタンの位置を確認して止める。本当に目覚まし時計の音は嫌いだ。
母が亡くなってから今日で一ヵ月が経つ。わたしは、母を目の前で亡くしたショックで、声が出なくなった。だから人とも話せないし、まだわたしは中学二年生だから、人としゃべったりすることも多い。でも一番つらいのは、歌を歌えないことだ。
幼い頃から、母とよく歌を歌った。つらい時も嬉しい時も。わたしが歌を歌いはじめると、母も笑顔で歌いはじめていた。それが、すごく楽しかった。
だから、歌を歌うことそのものが、わたしと母の人生だった。誰かと歌えばわたしは幸せになれる。誰かと? いや、母とだ。
お母さんに会いたい。
これがわたしの願い。
お母さんが死ぬ前に時間を戻してください。
神様にずっと祈っていた。時間なんて戻せるはずがないのに。
さっさと身支度を済ませて、学校へ向かう。
二.期待
無事学校に到着して靴を履き替える。そして、わたしの好きなペースで歩き三階までのぼる。そし二年八組の教室へ入る。教室へ足を踏み入れた瞬間、後ろから腕を何者かにつかまれた。ガシッと、力強く。
「ちょっと待って。疲れた。タイム」
わたしが振り返ると、長髪の女の子が息を切らしてしゃがみこんでいた。
「やば。まじ疲れた」
彼女は「疲れた」という言葉しか知らない人かのように、「疲れた」と何度も言う。
「って。ちがぁーう!」
と、彼女は叫んでバッ! と立ち上がった。
「君のこと知ってるよ」
何で知ってるのかは分からない。
「なはははは!! 何ボケッとしてるの!」
彼女は明るすぎる。まるでわたしを毎朝けたたましい音で起こす、目覚まし時計みたいだと思った。
「まぁとにかくさ。わたしはずっと君を探していたわけよ」
彼女は突然、わたしの両肩を力強くつかんでいた。
「あたしと、歌ってよ」
周りでたくさんの人たちが声を出しているはずなのに、頭の中が真っ白になって何も音が聞こえなくなった。
わたしは、自分を指さした。そして彼女は不思議なことを言った。
「君はさぁ、あたしの最初で最後のパートナーなの。声、出ないの知ってるよ。今はそうでも、あたしは君の歌声を知ってる。ダメなの?」
この人、何? わたしをパートナーと呼ぶのはなぜ?
「急だけど、今答えて。あたしと歌って」
ここまでねだるとは…、思ってもなかった。でも少し嬉しかったから、やってみようと思った。
わたしはうなずいた。
そしたら彼女は、
「お―――」
と言ってわたしに小さなメモを差出した。
「これ、あたしの携帯の番号。夜電話して」
わたしがメモをうけとると、彼女はスキップをしながら他の女の子たちの元へ行ってしまった。
彼女はわたしが声を出せないことを知っているのか。
六時間目の授業が終わって帰りの準備をしていた。その時、後からゴツゴツした手がわたしの肩をたたいた。後ろを振り返ると、上本夢広が立っていた。
上本夢広は、とても成績優秀でユーモアのある人だ。男子だけどたまに女の子みたいになるのが、彼の特徴だ。
上本くんは急に大きな声で、わたしに向かって
「君!」
と言った。そして、ひと呼吸おいてから次は落ちついた、少し低めの声で話しだした。
「放課後、ちょっと色々話したいことがあるんだ」
放課後は用事がないので、うなずいて見せた。
シーンとした少し寂しい教室に、上本くんとわたしだけが残った。
わたしは教卓の前の席に座り、その横の席に上本くんが座る。
上本くんをよく見ると、目が大きくて、でも真顔はシーラカンスに似ていた。
そのシーラカンスの顔で上本くんは、とても信じられないことを言った。
「僕は神だ」
本当に信じられない。この人が神? 聞き間違いだと思い、「もう一回と」右手の人差し指を立てて見せた。
すると彼は言った。
「僕は神だ」
と。
少し間があいて、彼はまた話はじめた。
「すなわち、僕が君の未来が見えるということなんだよ」
本当にこの人は、何を言っているんだ! と思うが、そんなことをずっと思っていては話が進まない。受け入れることにする。
わたしは、胸ポケットから白いシャーペンと花柄のメモ帳を取り出した。わたしは迷うことなく、メモ帳の紙をちぎって、こう書いた。
“上本くんが神だと言うこと、信じます”
その文を神(上本くん)は見て、顔をパッと明るくして言った。
「じゃあ、今から僕が話すことを受け入れてくれないかい?」
神の真っすぐな瞳を見つめながら、わたしはうなずいた。
「今日の朝、君は一人の女の子に話しかけられたと思うんだ。その子に『あたしと、歌ってよ』と無理なお願いを言われたよね」
神の言ってることは、確かに全て現実で起こったことだった。驚きのあまり開いた口が塞がらなくなってしまった。
そんなわたしの表情を見て、神はフッと笑い、次は真剣な眼差しになる。
「その彼女のお願いにうなずいた君は、正解だったんだ。この先、彼女といっしょにいて、お互いのイヤな部分が見えてきて、君の心が折れることもあると思うんだ」
神は強く「でも!」と言い
「この出会いは、君を強くするものなんだ」
と言って少しほほえんだ。柔らかいほほえみだった。
わたしを強くする…出会い。もしもうまく上本くんが本当に神様で、このことが本当なら、わたしは信じたい。
三.不思議すぎる女の子
例の彼女に電話をかける…。わたしが電話で話せないことを知っていたのか…。
もう午後七時を過ぎていたので、電話くらいはかけることにする。無言だったら、わたしのことだと分かってくれるだろう…。
渡されたメモの番号を目で追いながら、番号のボタンを1つずつ押していった。そして、ゆっくりと受話機を上げて耳元にあてる。
プルルル…ブルルル…
『もしもーし』
この声は間違えなく彼女だ。
『あれ? もしもーし』
あえてなにもしないでおく。
『んっ? あー、もう夜かあ。夜? あっ! もしかして…君が! 君! そうだったら一回受話機を爪でたたいて!』
言われたとおり、爪をしっかりたてて受話機の下側を一回叩く。
『あー、ごめんね。こんなことになるなんて思ってなくてさ。ドンカンなんだよ、あたし。で、わたしの名前さ、川村優花っていうんだ。明日、土曜日でしょ? ヨシカワスーパーの前で待ち合わせできる? 朝十時に』
わたしは爪をたてて、受話機の下側を一回たたく。
『よし! 決定ね! そんじゃ! また明日ねー』
そして電話機は切られた。
電話を切られた瞬間、少し笑ってしまった。
明日がとても楽しみになる。川村さんのことを、もっと知りたくなったから。
持ち物は…メモ帳三冊とシャープペンとシャーシン、それから、とりあえず財布。白いセーターと紅のロングスカートをはいた。その上から黒い毛糸で編んだ、ポンチョを羽織った。
家を出ようとした時、寝起きの兄にあった。
「彼氏にでも会うのか?」
そんなわけないし。
笑いながら首を横に振る。
ヨシカワスーパーに着いたときには、午前九時五十九分だった。川村さんは十時ちょうどに来た。川村さんはお嬢様みたいな格好をしていて、とても川村さんらしい姿だった。
「近くにカフェあるの。そこで話そ」
そう言われたので、わたしたちはそのカフェへ向かった。
そのカフェは、とてもきれいで窓辺の席に心をうばわれた。わたしたちはその窓辺の席に座ることにした。
席に座って少し落ちついてから、川村さんは話しはじめた。
「本当に昨日はごめん。君の声のことを気にしてなくて…」
わたしはすばやくメモ帳とシャーペンをカバンから取り出して、メモ帳を開いて文を書く。
“いや、大丈夫です。うれしかったです”
すると川村さんは、静かなカフェに響くぐらいの大きい声で「マジで!?」と言った。
周りに人が少なくてよかった。まあ目立つけど…。
「あーよかったあ。あっ。そーそー。まだ名前聞いてなかった。教えてくれる?」
わたしは漢字で書いた名前の上に平仮名で、ふりがなを書いた。
“越智アヤノです”
川村さんは笑顔でうなずいた。川村さんが笑うと、頬にえくぼができてかわいい。
「よし! アヤノちゃん!」
苗字ではなく、名前で呼ばれるのはうれしかった。
「急だけどさ、三カ月後の歌のコンテストに、二人で出よう」
コンテスト…?
“でもわたし、声出ません”
母が死んだショックで出ない声だと思うけど、そのショックがなくなったら、元に戻る。
でも、自信がない。
「あたしにはアヤノちゃんしかいないの。もしも今ダメだったら、今すぐにあたしの歌声を聴いてみない?」
川村さんの歌を聴いたら、何か変わるの? 川村さんの目は、とても真剣だった。
川村さんを信じて、わたしはうなずいた。
川村さんはカフェから徒歩十分の場所へわたしを連れていった。そこには少し小さめの和風な家があり、わたしはそこに入らさせてもらった。
地下があって、その地下へ実際に入ると、キーボードやギターが置かれていた。
「ここ、あたしの家だよ」
笑いながら川村さんは言って、ギターを持って弾きはじめた。
流れるような音色。音は消えて無くなるけど、川村さんがつくりだす音だけは違った。優しく心にしみこんでくる。
川村さんは、すき通った声で歌いはじめた。
ビブラートのかかる声。川村さんの声は、悲しみや喜びを伝えようとしている優しいものだった。その歌声は、わたしの母の歌声に似ていた。
わたしの目には川村さんがうつっているはずなのに、ボヤけてきた。
死んだ母がわたしの目の前にいる。そんな気がした。
そして川村さんは歌い終えると、
「そんなに泣いてどうしたの!」
と驚いているかのような声で言った。
ただただ、涙があふれ出す。母に会えたと思った。うれしかった。
自分でも分かった。今なら声が出ると。
「ありがとう」
わたしの声は元に戻った。
四.これが運命だから…
「わたしは、目の前で母を亡くしました」
母の声を思い出したら、母のことを川村さんに話したくなった。
約一ヵ月前…
いつもよりも習い事が長引いてしまい、帰るころにはすでに午後六時を過ぎていた。十一月の下旬はもう暗い時間帯だった。
少し早足で歩いていると、まっすぐ続く道の先に母らしき人が歩いていた。歌いながら一緒に帰ろうと思った。
母とわたしの距離はかなりあるけど、ジョギング程度であれば追いつける気がしたからわたしは母を走って追いかけた。
走りながらわたしは、母と楽しく歌う姿を思い浮かべた。
思わず笑みがこぼれる。
何の歌を歌おうかな。
明るい曲がいいな。
あともうすこしで母に追いつく。
母が横断歩道を渡ろうとした時、右からすごい勢いの大型トラックが走ってきた。
ギ―――――
大型トラックは不気味な音と共に横倒しになった。
さっきまでわたしの前を歩いていた人が母だったら…。そんなわけないでしょ。
でも、いやな予感しかしなかった。
近くにいた人たちが一一九番通報してくれた。その十分後に救急車は到着した。
事故現場に救急車の赤い光が差しこんでいるのを見て、だんだん状況が分かってきた。
純白のコートを着た女の人の頭部から、じわじわと血が流れていた。
倒れている女の人は目を閉じていた。
本当に、他の誰でもない母だった。
ただただ、その場に立っている状態だった。
「ああ…ああ…っ。ゔゔゔ…ゔあ―――――――!!!!」
泣きながらさけぶしか、その時のわたしにしかできなかった。
わたしの話を川村さんは、真剣な表情で何も言わず聞いてくれていた。
「わたしは、母とまだ…ずっと、歌を歌いたかったんです」
知らない間に涙は止まっていた。
次は、わたしからお願いをしないといけない。
「わたしと、歌ってください」
川村さんはニカッとと笑って言った。
「当たり前でしょ」
その日から、わたしたちの歌ライフが始まった。
活動日は、火曜日、水曜日、木曜日、土曜日。場所は、川村さんの家の地下。
今日は日曜日なので何もない。川村さんからもらった、コンテストで歌う曲の歌詞と楽譜を見ながら、自分の部屋で練習した。注意しなければいけないところには、楽譜に印をつける。火曜日に川村さんと一緒に歌うのが楽しみで仕方ない。
わたしの声が出たことに、家族はとても驚いていた。そして、母もわたしの隣で笑ってくれているような気がした。
翌日。よく晴れた空に向かって腕をのばす。
気持ちがいい日だ。
スキップをしながら学校へ向かう。
わたしは今、幸せです。
学校に着いて、靴を履き変えようとした時上靴の中に紙切れが入っていることに気がついた。
指でつまんで広げた。
“放課後、教室に残ってね☆ 話があるヨ☆
ユメピロ“
なんだ。上本くんか。
ポケットの中へ突っ込んだ。
一日じゅうずっとみんなに驚かれた。
「えー! 声出るようになったのかあ!」
みたいな。それはそれで、うれしかったけど…。
今日は川村さんに会えなかった。
放課後の静かな教室に、あの時と同じように、わたしと上本君だけが残った。
「君―! 声戻ったのかああああ…」
ウソ泣きに見えたが上本くんは泣きながらわたしの両肩をたたきながらそう言った。
結構怖い、神の泣き顔は。
「ねぇ神様。川村さんはどうしてわたしをパートナーにしたの?」
神はピタッと泣き止んで、「神様なんてテレる~」と言って、真剣な顔になった。
「それは言えない」
「どうして?」
「神にも秘密というものがある」
なんだか教えてくれないような表情だった。
仕方ないので諦める。
「分かった。もう聞かない。で、神様はなんの話があるの」
神は「ああー」と思い出したように言ってから、少し間をあけて話しはじめた。
「彼女の歌声は、君のお母さんの歌声に本当にそっくりなんだ」
「その通りだけど、それにも理由があるってこと?」
「そういうこと。お母さんは、君のことを見守ってくれている。そう思ってほしい」
やっぱり、この人は神だった。
「神様…」
「なに?」
「ありがとう」
自然と出てきた。神は笑顔で教室を去った。
五.土曜日
二人で歌を合わせることになった。
楽譜を立てて、マイクを持つ。
川村さんのギターの前奏から始まって、低い音でわたしから歌いはじめる。
この曲はハモるパートが多いから尚更楽しかった。
川村さんと歌えば母と歌っているような気分になれた。
歌い終わってから、川村さんは大きい声で「やったあ」と言ってわたしに抱きついてきた。
「川村さん…。ありがとう」
「こっちこそ。ありがとう。アヤノちゃんは、人を幸せにする歌声を持ってる。だからこの先、何があっても大丈夫だから」
そう言って川村さんはギターを持って、音の確認を始めた。
わたしたちが歌の練習を始めてから一ヵ月が過ぎた。コンテストまで残り二カ月。
順調に進んでいたと思ったが現実は甘くなかった。
曲の最中で急に川村さんは、ギターを弾く手を止めた。
「川村さん?」
「ごめん…なんか…見えにくくて」
川村さんは目をギュッと閉じて、こめかみを押さえていた。
「ねぇ川村さん。練習1回やめよう」
「いや、もう大丈夫だよ」
顔色が悪い。何か隠してる気がした。
「さぁ、やろう」
川村さんはそう言って、ギターを弾こうとしたけど、指が動こうとしていなかった。
「川村さん?」
「大丈夫」
「何隠してるの」
「何も隠してない」
「ウソつかないで!」
川村さんは頭を両手でかかえた。
言いすぎたかもしれない。ゴメンと言おうとした時、川村さんは震えた声で言った。
「お願い…帰って」
「ダメだよ。今日は家に親いたよね?」
「うん…」
「呼んでくるから」
わたしは走って一階のリビングへ入った。
「あの…優花さんが大変なことに…」
幸い川村さんのお母さんがいて、なんとか助かった。
救急車が到着して、川村さんはそのまま運ばれた。そして入院することになった。
救急車の音を聞くと、あの日の記憶がまたよみ返る。
わたしが倒れそうになったときに、川村さんのお母さんが支えてくれた。
一週間はあっという間に過ぎた。
教室の自分の席に座って色々考えていた。コンテストはどうなるのか、川村さんはまた歌ってくれるのか、わたしはこれからどうすべきなのか…。
川村さんはわたしの生活に光を注ぐ、太陽のような存在だった。
『あたしと、歌ってよ』
そんなこと、言ってくれなかったら…今のわたしはなかった。
『君はさぁ、わたしの最初で最後のパートナーなの』
それって、死ぬってことなの?
「おーい越智さあーん」
隣の席の男子が顔をのぞきこんで、声をかけてくれた。
「顔色がよろしくない」
そう言って「よっこいしょ」と言いながらイスに腰かけた。
このおじいちゃんみたいな人は、下田くん。
(残念だけど苗字でしか覚えていない)
「あ! そうだ。この前学校休んだからさ、数学のノート見せて」
「いいよ」
机の中から今日数学のノートを引っぱり出して下田に渡した。
下田はわたしの数学のノートをパラパラとめくりながら質問してきた。
「どーしたの。顔死んでるよ。失恋?」
「そんなわけないでしょ 」
「誰かとケンカ?」
「たぶんケンカじゃない」
「たぶんって何だよ」
「分からない」
「大事な人が亡くなったとか」
なんだか下田は、おしいところをついてきたような気がした。
しゃべりながらノートを写す下田は、すごく器用な男子だと思った。
「えっ? 俺当てちゃった系?」
「当たってない系だけど、まぁ…いい線いってる」
「へえ、まぁ大変そうだね」
「その人と、約束をしたの。コンテストに出るって。そのコンテストで優勝するとかって言う約束じゃなくって。二人でそのコンテストに出ることだけを約束した」
「何のコンテストかは知らないけど、あんたの悩んでること、分かったよ。一人だけでそのコンテストに出るかってことでしょ」
この人は勘がいい。
わたしはうなずいてみせた。
「出ろよ。あんたがコンテストに出なかったら、まあさ…、お前の相棒が悲しむだろ」
わたしが川村さんの変わりにコンテストに出る…一人だけど、川村さんがついてくれているって思うと、大丈夫な気がした。
下田はわたしに数学のノートを手渡しながら言ってくれた。
「お前なら大丈夫だろ」
と。
六.もう諦めたいの
わたしは川村さんの家へ行って、川村さんのギターを借りた。その時、川村さんのお母さんが言ってくれた。
「アヤノちゃんには一人で出てほしいって、優花が言ってたの。だから、お願いね」
コンテストまであと二週間。
ギターは幼い頃に母にを教わっていた。ということもあるので川村さんがいなくてもできた。でも、弾き語りというのは思ったより難しかった。
あと二週間だというのに…。下田みたいに同時に二つのことをできればいいのに。
わたしには、川村さんがいないとだめだ。
わたしはダメな人間だ。
心を強く持てないし、ちょっとできないだけで物事を投げ出す。
わたしは弱いんだ。
川村さんに出会ってから、わたしは強くなったと思っていた。
電話がわたしを現実に引き戻すかのようにけたたましく鳴る。
受話器を耳元にあてた。
「もしもし」
『僕は神だ』
ああ、アイツか。
『僕は君に腹が立っている』
いつもより暗い声だった。そんな神にわたしは問いかけた。
「どうして?」
『君は、川村さんのことを大事な人だと思っていただろう。その人との約束を君は破るつもりか』
「そんなことは…」
『コンテストに、出場したくないだろ』
「…」
息詰まってしまう。神が泣いているような気がした。
『今の僕には、君に、そんなことしか言ってあげれないんだ」
何言ってんの、この人。
「君は、川村さんとの約束を果たすまで、川村さんに会ってはいけない」
「何で! あんた、さっきから何言ってんのか全くわからないよ」
なぜか分からないけど、涙が何度もわたしの頬を流れた。
「わたし、どうしたらいいの?」
「いつか、全てが分かるから」
神はそういって、電話を切った。
受話機を持ったまま、わたしは一人立ち尽くしていた。
川村さんは、わたしが一人でコンテストに出てほしいって言ってたみたいだけど、わたしは川村さんと出たかった。
その時、わたしは思い出した。
下田と話していた時、思ったことがあったんだった。
わたしが一人でコンテストに出ることになっても、川村さんがついてくれている、ということ。
残りの二週間、乗り越えてやる。
七.すべてが奇跡
そして、ついにコンテストの日がやってきた。
コンテストが終われば、川村さんに会える。
エントリーナンバー五十二番、超智彩乃。
川村さんのギターと共に、わたしはステージに立った。とてもまぶしかった。
マイクの位置を調整して、歌う前に話をしたかった。
「わたしは大切な一人の友人とこのステージに、立つ約束をしていました。しかし、その人は、この前急に倒れてしまって、今日は出れませんが…」
ふうっと息をはく。
「わたしは一人ではないです」
そう。川村さんがそばにいてくれている。
「だから今日は、精一杯…その友人のためにも、みなさんのためにも、歌います」
歌いはじめてから色々なことを鮮やかに思い出した。
母を目の前で亡くしたこと。
声が出なくなって希望を失ったこと。
川村さんに出会った。
神に出会ったこと。
声が戻ったこと。
川村さんと歌って楽しかったこと。
川村さんが倒れたこと。
色々な人がわたしを勇気づけてくれたこと。
そして今、このステージに立っているということ。
コンテストは準優勝で、無事終了した。
コンテストが終わってからすぐに、わたしは川村さんの元へ向かおうとした時、ポケットに入っていた携帯電話が音を立てた。
ポケットから携帯電話を取り出して、受話器のボタンを押して、耳元にあてる。
「もしもし…」
『僕は神だ』
ああ…。
『準優勝、おめでとう』
神は、とても穏やかな声で言ってくれた。
「ありがとう。これからさ、川村さんの家に行こうと思ってて。倒れた後、ずっと会ってないでしょ?だから…」
『冷静に聞いてくれ』
「なんなの?」
『彼女は…』
「病気だったの?」
『彼女は…』
いやな予感がした。手に汗を握っていた。
「はっきり言わないと、分かんないよ」
『この世には、存在していないんだよ』
「あんた、何言ってんの?馬鹿でしょ。そんな訳ないでしょ!わたしは川村さんと一緒にいた!わたしのそばにいたじゃない!」
誰もいないコンテスト会場の出入り口で、わたしは必死に叫んだ。
「じゃぁ、川村さんは、一体何だったの」
『…それは…、君の分身だ」
頭が真っ白になった。
『君のお母さんは…まあいい。家に帰ってポストを開けて。そしたら川村さんからの手紙が入ってる』
電話は切られた。
全てが、何もかもが、作り話に思えて信じられなくなった。川村さんの家だけは残っていると思い、訪ねることにした。
家は、どこにもなかった。ここにあると思った場所はあき地。
仕方なく自宅に帰ることにした。
ポストを開いて中を確認すると、神の言っていた通り、うすいピンクの手紙が入っていた。
部屋に入ってから、少し落ちついて手紙を読んだ。
『アヤノちゃんへ
急に倒れてごめんっていうより、いなくなってごめん。
なんかさあ。たくさんウソをついてしまった。他の誰でもないあなたに。名前も違うし、友達もいないし、1番は、この世に存在していなかった。(まぁ、そこら辺は神様が教えてくれたと思う)
あなたのお母さんが、あたしを作った。1番の目的は、あなたを強くするため。
正直に言うとさ、あなたは本当に打たれ弱い。もっと自信を持ってやっても大丈夫なのに、少し上手くいかなかったら投げ出してしまうのがあなた。
でも、あなたは変わった。
一人でコンテストも出れたし、何よりも、前向きになった。それは、本当にすごいし、素直に感動した。あなたのお母さんも。それはあなたが成長した証です。
急に体調をくずして倒れてしまった日があったよね。あの日は、あたしがこの世から消える三日前だった。
すごく怖かったんだよ。もちろん神にも、ずっとここにいたいって頼んだ。でも、分身は無理みたい。すごく泣いたの。あなたと離れたくなかったから。
あたしの性格は、あなたとは反対のものなの。それも全て、あなたが強くなるため。
ああ。もっと歌いたかったなぁ。だってすごく楽しかったから。
人とめぐり会えるって素晴らしいことだなって思った。あたしだって、あなたと会えてたくさん学んだこともあるの。分身だけど。人と人とは支えながら生きていくもの。不幸になることもあるけど幸せもあるの。…だからね、あなたと成長できてよかった。
あたしはね、ずっとあなたのそばにいるから。たとえあなたの分身でも。
本当に幸せだった。
何があっても大丈夫。
今までありがとう。
あたしは、あなたの分身でよかった。
大好きな人だから。
川村 友香』
「…フザけないで。…全部がウソだったって…言ってよ。存在してたでしょ…」
何度も頬を涙が流れた。
いつの間にか朝を迎えていた。手紙はシワがたくさん付いていて、顔がパンパンなのは自分でも分かった。
学校に着いてから、神が話しかけてきた。
「おはよう。…僕は神だ」
「知ってる」
わたしは下を向いたままでいた。
「僕に惚れない女はいない」
「いるに決まってるでしょ」
コイツはわたしを笑わせようとしているのか。
「手紙…読んだのか」
「読まないでどうすんの」
「どう思った?」
「…」
何でそんな感想聞くの。
「正直に言ってほしい」
「これからは、歌を歌っていく道を歩みたいの」
「そうか」
神はうれしそうに言った。わたしは顔を上げて、少しほほえんで見せた。
席に座ってから本を読んでいると、横から下田に顔をのぞかれた。
「おい、国語のノート見せろ」
机の中から手探りで本を引っぱり出して渡した。
そしてまた器用に、わたしに話しかけながらノートを写しはじめた。
「コンテストはどうなった」
「準優勝」
「おお、すごい」
「全く感情こもってないんだけど」
笑いながら言った。
「いや、思ってるし。あと、お前笑ったほうがいい」
「急に何よ」
「ああー。俺好きかもおー」
「えっ」
下田は国語のノートを閉じて、手渡しで返されて、下田の左手がわたしの頭の上になった。
「まぁ、これからも、お前なら大丈夫だ」
そう言って下田は男子とのじゃれ合いをはじめた。
土曜日。この空のすき通った青色が美しい。
川村さん、今は何をしている?
そう思いながら街を歩いていた。
ドンッ
誰かの肩にぶつかってしまい、手に持っていた楽譜の入っているファイルが落ちる。
かわいらしい声の女の子に
「すみません!」
とあやまられ、ファイルを拾ってくれた。
その女の子と顔を合わせると、女の子はハッとした。
「コンテストで準優勝した、越智彩乃さんですか?」
「わたしのこと…」
「知ってます!」
女の子は二重の目をパチパチさせながら言った。ツインテールで背は少し高め。ギターを背負った女の子。
コンテストに出場はしていなかったが、見ていたらしく、わたしのことを知ったそう。
そして女の子にこう声をかけられた。
「うちと歌ってくれませんか?」
その姿はまるで、あの日の川村さんのように見えた。