第20回角川ビーンズ小説大賞 ジュニア部門 グランプリ受賞作品『紙のピアニスト』
第20回角川ビーンズ小説大賞 ジュニア部門 グランプリ受賞作品を公開いたします。
『紙のピアニスト』 彼方青人 14歳
プロローグ
人生で初めての挫折は九歳の時だった。
習っていたピアノをやめたことだ。もっとも、私自身はこのことを挫折だなんて思っていなかった。周りの大人が私のことを「中途半端に諦めた根性のない子ども」だと心の中でみなしているのが段々わかってきて、自分でもそうなのかもしれないと思ってしまった。
やめて良かったと思っている。習うのも継続するのも、私には向いていない。ピアノ教室に毎週通っていたという過去は、一刻も早く消し去ってしまいたいものだった。
けれども、私はピアノに未練があるようだった。やめてから数年経っているというのに、気づけば机の上で指が動いているし、頭の中ではかつて弾いたクラシック曲が、激しく鳴り続けているからだ。
ある時私は、ピアノへの執着のあまりみすぼらしい行動に出た。どうしてそんな発想に至ったのかはわからない。ダンボールと画用紙をはさみで切り、のりで貼り付けるという作業を、夢中になって繰り返していた。
出来上がったのは、ピアノを模したダンボールだ。鍵盤の位置や大きさだけは絶妙に再現されているが、指を置いても何も鳴らないし、押している感覚もない。ただ、ピアノを弾いていた頃の気持ちを、忘れないでいることだけができる。
私には。意気地なしの私には、それで充分だった。
ピアノをやめて五年。紙のピアノだけを頼りに、私は鍵盤の思い出を記憶し続けた。
第一章
通っていたピアノ教室は、家から徒歩十五分のところにあった。高級住宅街の端のほうで、こぢんまりと開かれていたものだった。「あいもりピアノ教室」と書かれた青い看板の光景を、今でも鮮明に覚えている。毎週それを見るたびに、レッスンの曜日の火曜日であることを実感した。
講師の先生は、還暦を迎えたお爺さんだった。藍森先生と呼ばれるその人は、一秒間に何度も音を鳴らすようなクラシックを、ごつごつとした大きな手で豪快に演奏した。先生の演奏は、遠くの海へ船出する漁師の心境を映したような、そんな音色をしていた。どこにでもいるようなお爺さんという印象からは、想像できない世界観を作り出す人だった。
初めてピアノを、グランドピアノを弾いた日、私は六歳だった。レッスンの途中、送り迎えをしてくれた母は、私が無礼を働かないかを教室の端で見ていた。背後から緊張感が伝わってくる授業参観のような感覚に、とにかく嫌悪したのを覚えている。
最初に鳴らした音は「ド」だった。鍵盤の真ん中にいる誰もが知るその音に、私もそこで初めて出会った。
「ドの音を弾いてみてください」
藍森先生が言った。私は、ピンと伸ばした人差し指で、言われた通りに音を鳴らした。
ドの音が鳴った。
「次はレです」
隣に指を動かす。
レの音が鳴った。
「次は……」
そんな風にして、色々な音を弾いた。藍森先生はなんでもすぐに褒めてくれた。嬉しくなった私は、どこかで聴いたきらきら星を勝手に演奏した。
先生は優しく微笑んで、私の拙い演奏にたくさんの褒め言葉をかけてくれた。ありがとうさえも器用に言えない子どもだった私だが、夢中になって鍵盤を押し、どうにか感謝の気持ちを伝えたつもりになっていた。
当時のことを思い出す。
藍森先生はいつも真摯に教えてくれた。うまく弾けなかったからといって、怒られることも突き放されることもなかった。
だから、ピアノをやめたという事実が、挫折したという過去が、五年経った今でも私の心を縛り続けている。
中学二年生になって初めての音楽の授業があった日、音楽室にリコーダーを忘れてしまった。気づいた瞬間、どっと冷や汗が出た。やっぱり自分はダメだという嫌悪感と、リコーダーに対する罪悪感に苛まれる。
終礼が終わると、リコーダーをとりに急いで音楽室に向かった。
鍵は開いていた。失礼します、と唱えるように小声で言い、ゆっくりと足を踏み入れた。
誰もいなかった。窓の外から運動部の掛け声は聞こえてくるが、部屋の中では自分の足音以外、なんの音もしない。
奇妙な空気にしばらくあっけにとられた後、自分が座った机の中を確認した。リコーダーはいとも簡単に見つかった。
そのまま帰るはずだった。
目が眩んでしまった。音楽室でしか見られないグランドピアノの存在が、どうしても気になった。背後から感じる強い魔法を、無視することはできなかった。
少しだけなら弾いてもいいか、と私の中で悪魔が囁いた。
最後に本物のピアノに触ったのは、もう何年も前のことだった。当時の記憶を思い出しながら、慎重に鍵盤の蓋を開けた。艶やかで美しい鍵盤が顔を出し、早く弾きたくてたまらなくなった。
先生に許可を取らなくてもいいのかと、後ろ髪を引かれる思いで椅子に座る。鍵盤に手を置く。久しぶりにした動作だった。そのままドの音を鳴らす。
と―――――――ん。
音が一つ、まっすぐに響いた。夢中になって、レの音もミの音も鳴らした。誰もいない音楽室と、ピアノの音が穏やかに共鳴した。
いつも紙のピアノで弾いている曲を演奏してみた。何かの映像で耳にしたクラシックだ。コマーシャルだと思う。初めて聴いた時、故郷のような安心感と美しさを抱いた。重厚な低音と細かく繊細なメロディーは、グランドピアノのために作られた曲としか思えない。
やはり紙のピアノなんかでは練習にならなかったか、指が思うように動かなかった。小節の中で音がバラバラになり、右手と左手が大きくずれた。まるで他人の手を動かしているようで、気持ち悪い。こんなにも美しい曲を、自分が弾くことでダメにしている、そんな風に思った。
けれども、心の底から何かが湧き上がってくるのを感じた。楽しいとも気持ち良いとも言い表せない感情が、全身を駆け巡った。
頭がぼんやりとしていたが、指が続きの旋律を勝手に紡いでいた。たとえ紙であろうとピアノを練習し続けていた証拠だった。
曲が終わった。興奮して体温が上がっていた。忘れかけていたピアノの感触。まるで夢みたいだった。
数秒間燃え尽きたようにぼうっとしていたが、ふと我に返った。時計に目をやる。四時十五分。ガタッと勢いよく椅子から立ち上がって、出口の方を向いた。
そこに、一人の女子生徒が立っていた。端正な顔立ちは、廊下で何度か見たことがあった。大きな目で私をじっと見ている。
無言のまま見つめ続けられ、耐えきれなくなった私は「ごめん」と発した。
「えっ、何が?」
彼女の両肩で、左右に結われた三つ編みがすっと揺れた。
「えっと、だから、ごめん」
私は深々と頭を下げて、そのまま立ち去ろうとした。困ると謝罪が口をつくのは、幼い頃からの癖だった。自分でも何を言っているのか全く分からない。
「えっ、ちょっと待って」
彼女が私の腕をつかんだ。
「もう一度、聴かせて」
耳を疑う。ピアノのことだと信じられず、私は目をしばたたかせた。
「何を?」
「いやいやさっきの」
自分の拙い演奏を聞かれたという現実に困惑していた。ただでさえ苦手な会話という行為が、地獄のように感じられた。しばらく無言を貫く。
「もしかして、ピアノ?」
「うん」
彼女はにこっと笑った。キラキラと輝くその瞳から、思わず目を逸らしてしまう。
「い、嫌だ」
「えーなんで」
彼女の眉尻が瞬時に下がった。大袈裟なほど肩を落としている。
「どうして聴きたいの」
戸惑いを隠せないまま、私は問うた。そもそも私なんかのピアノを誰が聴きたいと思うのか。突然現れた知らない人に、どうしてそんなものを聴いてもらわなければならないのか。次から次へと疑問が湧いて出た。
「良い演奏だと思ったから」
彼女はまっすぐに言った。目線が合う。時が止まったかと思う程長い間、彼女は私の目を見続けた。
「わかった」
私は諦めて首肯する。
「やったー」
彼女は小さくその場で飛び跳ねた。
さっきと同じ曲を、同じスピードで、同じように弾いた。弾いている時の高揚感、弾き終わった時の達成感は一度目と変わらなかった。けれど、誰かに聴かれているというだけで弾き心地は全く違った。初めてピアノを習った日のことを思い出す。
「すっ、すごい!」
彼女は言葉を知らない幼稚園児のように、同じ単語を何度も繰り返した。
「すごいよ! すごく綺麗」
しばらく賞賛の言葉ばかりが聞こえた。
「あ、ありがとう」
久しぶりにピアノを弾いたというだけで満足だったのに、誰かに褒められると天にも昇る気持ちになった。気が付けば私の顔は火照っていて、引きつった笑顔のまま硬直していた。
第二章
二回目にその少女と話したのは、一週間後のことだった。間抜けなことに、私はまたリコーダーを音楽室に忘れた。
音楽室に近づくと、ピアノの音が聞こえてきた。玄人の演奏だと分かった。お手本のように正確だが、それだけじゃない。森が見える。春を迎えて自由に草木が生い茂っている、深い森のような音をしている。
半ば吸い寄せられるように音楽室に入った。
先生が弾いているのかと思ったが、違った。
弾いていたのは、どこかで見たことのある少女だった。身体の動きに合わせて、三つ編みがゆさゆさと動いている。あの子だ、とすぐにわかった。
心をわしづかみにされた。彼女の音は、優しくも力強いものだった。孤独に咲いているエーデルワイスを思わせるような。でも、曲の雰囲気に応じてじわじわとした温かさも感じられた。そして、藍森先生の音に似ていた。
なんなんだ、と率直に思った。こんなピアノは初めて聴いた。同じ中学生が弾いているなんて信じられない。プロだ、この音作りはプロがするものだ、と震撼した。たとえ鼓膜が破れてもいいから、近くでずっと聴いていたい。
演奏が終わったが、私は感動のあまり拍手を忘れていた。彼女の「うわっ」という声で目が覚めた。
「いたんなら言ってよ」
「あ、ごめん」
びっくりしたー、と彼女はため息まじりに言う。私は思いきり拍手をした。
「す、すごすぎて、演奏が」
「ありがとう」
彼女の感謝はまるで、賞賛されることに慣れているような声色をしていた。
興奮で足元をふらつかせながら、私はリコーダーを取った。足早に出口へ向かおうとする。自分とはあんなにレベルの違う演奏を聴いた今では、冗談でもピアノを弾こうなどとは思えなかった。
「ちょっと待って」
彼女の声にせき止められる。
「私、君に会いたかったの」
どういうこと、というより先に彼女が訊いた。
「名前は?」
にこにこと楽しそうな表情をしている。
「藤野風音」
答えない理由はない。私は淡々と返した。
「私は藍森あすか」
続く彼女の自己紹介。記憶にこびりついたその名字に、心臓が小さく跳ねた。
「えっ、藍森って……」
「もしかして、うちの生徒さん?」
あすかは、自分の家はピアノ教室で、講師は祖父がしているということを説明した。
「もうやめたけど、昔習ってたの」
私が言うと、あすかは驚いた表情で「そうなんだ!」とつぶやいた。
改めて、目の前の少女を見る。この子が藍森先生のお孫さんか。
「だからあんなに上手だったんだ」
「えへへ。ここのピアノ初めて弾いたけど、結構良い音するんだね。前の学校のはやばかったよ。大事にされてないのが丸わかりな音だった」
「前の学校?」
私が訊ねると、あすかは「あー」と間延びした返事をした。
「私、今年から転校してきたんだ」
「そうなんだ」
だから初めて会ったんだ、と私は納得する。
「ねぇ、音楽室のピアノって放課後は勝手に弾いてもいいらしいよ。知ってる?」
「そうなの?」
あすかの表情が、さらにいきいきとしだした。
「だから、これから毎日弾きに来ようと思うの。でも私あの日、君のピアノに惚れちゃって」
あすかは私の目を力強く見据えて言った。
「てことで聴かせて、君の演奏」
そうして、二人でただピアノを弾き合うだけの日々が始まった。終礼が終わったら、かけっこよりも速く音楽室に向かって走った。どれだけ急いでも、いつもあすかのほうが先に来ていた。明日は絶対一番に来る、と言いながら椅子に座る。それが私の日課になった。
どちらかが弾き、どちらかがそれを黙って聴いている、ということがほとんどだった。私があすかの技術に追いつけなかったため、連弾はめったにやらなかった。
あすかのピアノは極上だった。最高のテクニックと、最高の音色をもっていた。こんなものを無料で聴いてもいいのかと危惧してしまうほど。
あすかに色々なクラシック曲を教えてもらった。小学生でもできるような簡単なものから、藍森先生が弾いていたような難しいものまで、あすかは何でも知っていた。一度聴けばすぐに弾けるのだという。その全てを吸収してやろうと、私は真剣に彼女の教えに耳を傾けた。
「ピアノ、いつまで習ってたの?」
ある時、あすかに訊かれた。
「小学三年生まで」
私が答えると、「意外」と返された。
どういう意味での意外なのか、訊こうとするよりも先に、あすかから新たな質問があった。
「どうしてやめちゃったの?」
ああ。私は返答に困った。
やめてから、何度もされてきた質問だった。その度に、私は口をつぐんできた。
私自身がその理由をわかっていない。わからない。あの時はただ、ピアノにまつわるもの全てを嫌いになり、半ば逃げるようにやめた。当時もやめたい理由を上手く説明できず、親や先生に戸惑われ、時に怒られたのを覚えている。
「向いてなかったから」
ひとまず私は、どうとでもとれる答えを返した。
「嘘」
あすかが目を丸くしている。
私は頷いた。
「向いてないなんてことはないと思うんだけどなぁ」
あすかの一言で会話が終わる。
季節をいくつか越えるうちに、私たちは切っても切れない関係になっていた。
「私、転校してきて良かったー。じゃなきゃ風音に会えなかった」
あすかの一言に、私は返す言葉を上手く見つけることができなかったが、うまい具合にはにかんだ。
「どうして転校してきたの?」
なにげなく訊ねる。
「驚かないでね」
すると、あすかが真剣な口調になった。訊いてはいけないことだったか、と心配になる。
前の学校で何かあったとか、家庭の事情だとか、転校の理由として考えられることがいくつかあっただけに、しまったと思った。人は誰にでも秘密にしたいことがある。私は今、それをわざわざ聞き出そうとしているのではないか。後悔の念がじわじわと広がる。
あすかの口から出た答えは、想像の斜め上をいくものだった。
「お爺ちゃんがね、介護が必要になったの」
えっと声が出る。息が止まったような気がした。言葉を完全に理解するのに、数十秒がかかった。
「去年くらいから物忘れがひどくなって、おばあちゃん一人では手に負えなくなったから、私たちがこっちに来ることになった」
あすかは大人のような表情で言う。口角は上がっているけど、目は笑っていなかった。
「そんな、藍森先生が? 元気なの?」
「元気だよ、ぴんぴんしてる。何もかも忘れちゃったけどね、私の名前も覚えていない」
「そんな」
衝撃の連続だった。藍森先生がそんな風になったなんて、信じられなかった。言葉の知識が図鑑のように詰め込まれている脳から、次々と記憶が消えていくなんてありえるか。ましてや孫の名前を忘れるなんて。
生徒の一人でしかない私のことなんて、当然覚えていないんだろうな。寂しさで胸がはちきれそうになった。忘れられてしまったあすかを思うと、もっと悲しくなる。
「でもね」
当の本人はそんなこと気にしていないように笑っている。私は続きに耳を傾けた。
「ピアノは今でも弾いているよ」
「本当?」
良かった、と息に限りなく近い声が漏れた。
「体が覚えてるんだって。昔と変わらず、リストの曲も弾いちゃってるよ。曲名も覚えていないみたいだけど」
「そうなんだ」
「新しい曲も覚えられない」
一瞬希望が見えたが、その言葉にがっかりした。あすかは平気そうにしているが、私は悔しかった。天人のような技量を持つピアニストが、もう前のようには演奏できない。そんなに悲しいことがあるか。
「私、こうなってから考えるようになったんだ」
あすかが言った。
「何を?」
「死ぬっていうこと」
さっと静穏な空気が流れた。
「毎日毎日、できることがどんどんなくなっていくの。私が来たばかりの頃は、電話ができたし、自動販売機でジュースを買うこともできた。今は会話をすることも、文字を書くことも難しくなった。このままいけば、って。怖くなることがあるの。このままいけば、待っているのは死だって」
段々あすかの声が細くなっていった。
「そりゃ、私たちだっていつかは死ぬけど。でもこんな風にしていなくなるって考えると恐ろしくって。今まで存在していたものが、全部消えていく。おじいちゃんの音色を、二度と聴けなくなる日がいつか来る」
やめて、と言いそうになった。聞いているのが辛くなった。あんなに確固として存在していた藍森先生の音が、どこかに消えてしまうなんて、想像するだけで苦しい。
なんと言ってあげるべきか迷った。どうしたら彼女が明るい気持ちになってくれるか。自分が一番辛かった時に、周りの人がかけてくれた言葉を思い出して考えようと思った。
が、私にその経験はなかった。私が人生で一番辛かったのは、ピアノをやめた時だ。当時、励まし支えてくれた人は、いなかった。
当然だ。私は根性のない子どもだったから。やめたのは妥協だから。そうやって色々な人に怒られた。自分で辛かったなんて言うのも、おこがましいと分かっている。
ああ、なんと言ってあげればいいかわからない。「大丈夫」はなにが大丈夫なのか訳がわからないし、「そんなことない」は論外だ。そんなことあるんだから。
迷った私はしばらく黙っていた。みるみるうちに、空気が重くなっていくのがわかった。とにかく私は、自分の思ったことを素直に口にするしか方法がなかった。
「もし藍森先生になにかあっても、藍森先生のピアノの音は記憶の中にずっと残り続けるよ。そういう音色だから。私も、最後に聴いたのは五年前なのに、未だに鮮明に思い出せるの。海の景色」
「海?」
意味がわからないと言わんばかりに、あすかは首を傾げた。
「海の音だよ。藍森先生のピアノは海が見える」
五年前の記憶から、藍森先生の演奏している姿を思い出そうとする。ぼんやりしている部分もあるが、はっきりと覚えているのは、音から想像される海の光景だった。どこまでも青く広がる海。船が豪快に行き交い、波が力強く音を立てる海。穢れも解れも、全てを抱擁する海。海の姿がどうしても見えてしまう。
もう一度聴きたい。今でも強く思う。
「ああ、海か。確かに」
あすかが少し笑って言った。
「私は餅だと思ってた」
「も、もち?」
「うん。つく時、焼く時、食べる時。柔和で力強くて……みたいな? 餅に、似ていないこともないと思うよ」
何それ、私は可笑しくて笑った。飛躍した発想に、笑いが止まらなかった。あすかも一緒に腹を抱えた。
「藍森先生のピアノ、もう一度聴きたいなあ」
笑いつかれた後、気が付けば私は口にしていた。
「だったら、うちに遊びに来る?」
あすかが訊いた。
「えっ、いいの?」
「うん。グランドピアノ弾きにきて。音楽室のよりもずっといいやつだよ。運が良ければ、おじいちゃんの海の音色も聴けるかも」
「本当?」
私は飛び上がって喜んだ。小学生の頃の、遠足の日の前日みたいにワクワクした。藍森先生のピアノを聴けるかもしれないということも、上質なピアノを演奏できることも、遊びに誘ってくれるくらい誰かと仲良くなれたことも、全部嬉しかった。たくさんの喜びに押しつぶされ、酔っ払いのような気分だった。
二日後、私はあすかの家に、藍森ピアノ教室におじゃました。五年ぶりにあの看板を見て、懐かしくなると同時になぜか緊張した。
「おじゃまします」
ピアノがある部屋、つまり教室に足を踏み入れた時、最初に思ったことはなんだか空間が狭くなったような気がする、ということだった。壁までの距離も、天井までの高さも縮んだのではないか、と。しばらく考えて、自分が大きくなっただけだと気づいた。
「なーんだ」
思わず声に出して納得してしまう。
「なんか言った?」
訊きながら、あすかがピアノの蓋を開けた。藍森先生とそっくりの仕草だ。
用意ができたようで、あすかは私に椅子をさし出した。
「どうぞ、懐かしのピアノ」
「ありがとう」
そこに座った途端、六歳の頃の初々しい感じを、切ない程に思い出した。
ドの鍵盤に触れる。
ドの音がする。
隣に指を動かす。
レの音がする。
一音一音の重みがすごい。まるで時が止まったみたいに、空間が静謐(せいひつ)を湛(たた)えている。
私は席を立った。
「え、もう終わり?」
あすかが残念そうに言う。
「もう大満足」
私は答えた。鳴らす音全てが心に沁みて聴こえて、すでに充たされた。
「そっか」
その後、私たちは居間に行った。あすかのおばあちゃんが温かいお茶とお菓子を出してくれたので、しばらくそこで談笑した。
驚いたことが二つある。居間には、大きな本棚とショーケースが設置されていた。
一つ目は、そのショーケースの中に、数えきれない程のメダルとトロフィーが飾られていたことだ。ケースの中が、どこもかしこも金や銀で煌めいていた。
「九割くらいがおじいちゃんの。私のはここにかためて置いてある」
あすかが見せてくれたものの中には、「全国大会優勝」という文字が彫られたものもあった。こんなに凄い子と毎日ピアノを弾いていたんだ……と衝撃が走った。優勝というだけに、ボリュームも存在感も桁違いなトロフィーで、思わず持つ手が震えた。
「やっぱりおじいちゃんには敵わないね」
あすかが自嘲する。
「十分凄いよ……」
全国レベルですら謙遜する慎ましさに、私は感嘆することしかできなかった。
でも確かに、藍森先生のトロフィーたちは凄かった。世界という文字が刻まれたものもあり、量もとんでもない。
「やばい」と思わず乾いた笑いがこぼれた。
驚いたことの二つ目は、本棚の中に大量の楽譜がしまわれていたことだ。ピアノを習っていた時に見たことのあった、レッスン用の基礎などが載ったものや、分厚い楽典の本もあったが、私がたまげたのはそれらが理由ではない。
手書きの楽譜が何百枚もあった。目を疑った。あすかに訊くと、藍森先生が作曲したものだとわかった。
「とんでもない量」
「本当にね。若い時は毎日新しい曲が浮かんできてたみたい。しかも全部最高の曲」
あすかの言葉に偽りはなかった。楽譜を手にとり、頭の中で音を並べてみると、幻想的なメロディがいくつも聴こえた。本当に聴いたら、きっと耳がとろけてしまうと思う。藍森先生の並外れた才能に感服だった。
「これ、弾きたい、全部弾いてみたい」
胸の奥から何か熱いものが上がってくるような感じがした。頭の中が、藍森先生への憧憬でいっぱいになった。私もこんな曲を弾いてみたい。作ってみたい。音楽の難しさを承知してはいても、やってみたいという気持ちばかりが募り、うずうずする。
「すごい量だよ。譜読みだけで何万回と日が暮れそう」
あすかが冗談を諭すように言ったが、私は本気だった。心の底から藍森先生の音楽に触れたくて仕方がない。
「だったら、明日から毎日ひとつずつ持っていくよ。一緒に弾こう」
あすかはそう言ってくれた。私は喜んで頷いた。ありがとう、と精一杯言った。
その後も、同じようにおしゃべりをして過ごした。藍森先生のピアノを聴けるだろうかと終始期待していたが、残念ながら今日は体調がすぐれなかったらしく、会うことすらできなかった。
家に帰り、私は久しぶりに紙のピアノを使った。藍森先生の楽譜に並んでいた旋律を、弾いてみたらこんな感じだろうかと、指を動かしながら想像した。
藍森先生にピアノをやめると挨拶してから数年が流れた。また会いたいと切実に思う。けれども、大量の曲に触れたことで、師の心を垣間見たような気になった。達成感と充足感で夢見心地だった。それはもう、会ったも同然のことだと私は思った。
それから毎日、あすかは約束通りに楽譜を持ってきてくれた。それを読み解き奏でる日々は、幸せ以外の何物でもなかった。段々弾ける曲や聞き取れる和音の数が増えていき、私は音楽がもっと好きになっていった。そして、ピアノが好きだと思えるようになった。
だからかは分からないが、気が付けば紙のピアノに触れることはなくなっていった。
私たちは三年生になった。
第三章
初めてあすかが音楽室に来ない日があったのは、五月の初め頃のことだった。最終下校を促すチャイムが鳴るまで、私はあすかを待っていたが、音楽室に彼女が現れることはなかった。
翌日、休み時間に理由を訊きに行くと、家の用事とのことだった。彼女のほうも詳しくは言わなかったし、私も訊かなかったので、会話はそれで終わった。そうして、あすかが音楽室に来ない日がだんだん増えていった。
きっと何か大変なことがあるのだろう、と私は察せられるだけ察した。もしかしたら悩んでいることがあるのかもしれない、とも思った。心配でそわそわしながら、一人ピアノを弾いて待ち続けた。
二週間程経った頃、あすかは学校にも来なくなった。彼女の担任に理由を訊くと、「藍森さんは休みです」と返される日が何日も続いた。何もできなかった私は、ただ待つしかなかった。最初は気を紛らわせるためにピアノを弾いていたが、次第にそれもしなくなった。
一か月が経ち、今日もまた待つだけかと憂愁に沈んでいると、あすかが学校に来ていることに気が付いた。
廊下で彼女の姿が目に入った瞬間、安堵が胸にひろがった。これでまた一緒にピアノが弾ける。これまでの寂しさが嘘みたいに感じた。「やっほう」と声をかけると、あすかは小さく微笑んで会釈をした。
疲れているようだった。前よりもやつれて見え、目も腫れぼったい気がした。
放課後、私たちはピアノの前に集った。もうそれだけで嬉しかった。二人とも、しばらく無言のまま鍵盤を見つめていた。沈黙に耐えきれなくなり、私はテキトウに白鍵をポチポチ鳴らし始めた。
「ごめんね」
あすかが口を開いた。「何が?」と私が問うと、虚ろな目でぼそぼそと話す。
「ずっと、来れなかったこと」
私は「大丈夫」とできるだけ力強く返した。
何があったのかは、訊かなかった。嫌な予感があって、的中するのが私も怖かった。もしかしたら。もしかすれば。
藍森先生に、何かあったのではないかと。
恐ろしい想像が、頭の中を目まぐるしく回った。
また沈黙が流れた。私はピアノを弾き始める。この数週間、少しだけ練習していた曲だ。弾き終わると、あすかが小さく拍手した。初めて会った時の、はつらつとした拍手とは程遠い、弱々しいものだったけれど、演奏に賞賛を贈ってくれたことに、私は嬉しくなった。
もう一曲弾く気にはなれず、私は無言で座っていた。
「嫌なことがあったの」
あすかが言った。注意しなければ聞き取れない程か弱い声だった。
「何か、わかる?」
「わからない」
私は即答した。本心では全く分からないわけではなかったが、頭が分かることを拒否しているような感覚があった。
「言ってもいい?」
少し考えて、いいよと言った。あすかが安心できるように微笑もうと心掛けたが、唇の端がぎゅっと縮こまっただけだった。
「あのね——」
私はてっきり、藍森先生が亡くなったのだと思っていた。あすかの絶望的な様子から察するに、そうに違いないと勝手に思っていた。
けれどそれは、とんだ勘違いだった。
「いなくなっちゃったの」
彼女は、藍森先生が行方不明になったのだと話した。まるで小説のあらすじを説明するかのように淡々とした口ぶりだった。あすかのピアノのコンクールがあった日、演奏後の写真撮影の時に、気が付けばいなくなっていた。瞼を閉じるくらいほんの短い時間の間に藍森先生は姿を消していた、と。
「もう一か月以上経つの。どこかで息が止まってるんじゃないかって」
あすかは小さく泣き始めた。もう何度も泣いているんだろうなと思った。泣くことにすら疲れや呆れを感じているようだった。
「今までは平気だったことが全部涙になってでてきて、それで、それで」
あすかは肩を激しく上下させ、苦しそうに泣いた。
このままいけば、待っているのは死。あすかが言っていたことを思い出す。いけない、そんなことを考えてはだめだ、と自制しようとしても、残酷な想像は歯止めがかからない。
私も、泣いた。
藍森先生のレッスンの光景を思い出す。優しくて、情熱的な人だった。だからあすかがこんなに悲しんでいるのだとわかる。
私は一度ピアノが嫌いになった。でも、大嫌いにはならなかった。理由はきっと、初めて出会ったピアニストが藍森先生だったからだ。藍森先生は、いなくなっていいような人ではない。断じてない。
「あなたの大切な人は誰ですか」
レッスンの時、ふいにそんな質問をされた。私が突然のことに戸惑っていると、藍森先生はさらに説明を続ける。
「聴いてくれる人のことを考えながら弾いてごらん。どんな気持ちになってほしいのか、想像してみて。家族、友達、身近な人がいいと思う」
先生は私に、考える時間をくれた。答えるのを待っていてくれているのだと、幼い私にもわかった。なんとか期待に応えようと、私は考える。
数十秒を要して結論を導き出し、私は思った通りに口にした。
「いません」
あすかは毎日音楽室に来てくれた。でも、以前のように和気あいあいと弾くことはできなくなっていた。暗い顔で椅子に座り、ただ時間が流れるのを待っていた。私のほうも気が乗らなくて、鍵盤に手を置いたりはずしたりを繰り返してばかりだった。毎日がそんな風になった。
あすかのために何ができるだろうかと、必死になって考えた。答えは出ない。依然として出ない。でも、それでへこたれてはいけないと、誰に教えられるまでもなく思った。
何度も思い悩んだ末、私は彼女に贈り物をすることにした。それで彼女の元気が戻るかは分からない。でも、ほのかな希望にかけてみることにした。音楽の可能性にかけてみることにした。藁にも縋る思いだった。
第四章
「これどうぞ」
昼休み。折り紙で作った稚拙なものを渡しに、私はあすかのところへ行った。
「なにこれ」
予想通りの反応だった。慣れないことをする恥ずかしさで、顔が赤くなる。
「招待状」
私は答える。
「チケット」と鉛筆で書かれた紙を見つめて、あすかは訳が分からないという顔をした。
「何これ。え?」
「放課後のお楽しみ」
なんだか今になって逃げ出したい気持ちになり、いたずらを仕掛ける子どものように笑った後、私は走って自分の教室に帰った。生まれて初めて、緊張というものを知った。
あすかはいつもよりも数分はやく来てくれた。
「何をするの?」
訝しげに訊かれる。うん、と私は意味もなく頷いた。
「私ね、曲を作ったの」
「曲?」
チケットを頂戴致します、と私は面白おかしく声を作って言った。あすかは釈然としない表情でそれを渡す。コンサートの始まりだ。
私はピアノの椅子に座った。譜面台にそっとチケットを置く。鍵盤に手をのせる。何度もしたことのある動作だったが、いつもの何十倍も緊張感があった。
ピアノのことを忘れようとした時期があったために、私には発表会の記憶がなかった。自分が何を弾いたのか、どんな服を着たのか、何ひとつ覚えていない。心をこめた演奏を誰かにきちんと聴いてもらうのは、初めてだと言ってもおかしくなかった。
音符一つ分、息を吸う。
そうして私は弾き始めた。自分で作った曲。海の曲だ。
さざ波の旋律が始まる。ゆっくりと。けれど曲は確実に進んでいく。透き通った高音部を、十六分音符が行ったり来たりする。時々ある二拍三連符が、海の規則正しい流れをせき止めるようで不自然だ。でもどこか美しい。意図した構想だった。不安定さが寧ろ美しいバラードは、藍森先生特有の音楽だ。あすかに見せてもらった楽譜から分析した。藍森先生は、ベースの進行は同じのまま、和音だけ劇的に変化させていくという癖を持っている。単純な音の重なりが、だんだん複雑で妖艶な響きになっていくにつれ、聴衆は心を鷲掴みにされる。もっと良いのは、誰にも書けないであろうメロディーだ。どんな人生を生きたらこんなものが降ってくるのかと思うほど、藍森先生のつくる旋律は極上だった。次の音が予測できない。でも、一度聴いたらまた聴きたくなる。
そんな魔法みたいな音楽が、どの楽譜にも共通して存在していた。
ピアノがどんどん音を紡ぐ。どこまでも広がる海の青さ。とまらない、とまらない。藍森先生の演奏を思い出しながら弾く。
人生で初めての作曲だった。できるだけ藍森先生の世界観を投影できるようにと、考えて楽譜を書いた。あくまでもそういう意志の、藍森先生への尊敬を込めた曲だからだ。とにかく難しかった。藍森先生がいかに類いまれな才能を持っていたかがよくわかった。
「あなたの大切な人は誰ですか」
藍森先生の言葉が脳裏をよぎる。当時は想像できなかったものが、形を帯びて、頭の中に浮かぶ。
大切な人はあすかだ。音を届けたいと思う相手は、あすかだ。心が熱くなっていく。自然と音に魂がこもった。
荒波を乗り越え、音はやがて静かになっていく。波は命を鎮めるかのように、静かに揺れる。揺れて、揺れて、揺れて、春のような穏やかな終焉が訪れる。
曲が終わった。
ふっと顔をもたげると、あすかが声も出さずに泣いていた。静かに涙が頬を伝っていく。私と目が合うと、彼女はゆっくりと両の手を叩き始めた。
「おじいちゃんだ」
あすかはつぶやいた。
「おじいちゃんの音楽だった」
私は嬉しくなった。大成功だ。
「本物だよ。本物だ……」
あすかはまた泣いた。今度はひくひくと啜りながら。「ありがとう」とかみしめるような声。
「こちらこそ、ありがとう」
私は心をこめて返事した。
プレゼントだと言い、手書きの楽譜をあすかにあげた。思い出を写真として残すように、今日私が奏でた音楽も、形にしたかった。
「ありがとう」
あすかは潤んだ瞳のまま、笑った。
「作曲はよくするの?」
「ううん、初めてした」
「え、すごっ。やっぱり風音は才能あるよ」
「まあ、パクリみたいなものだから」
「新曲できたら、今度聴かせて」
「うん」
放課後の音楽室に響く会話。二人だけの世界。私の好きな時間だ。
「あんなに感動する曲、私じゃ作れないな」
あすかが寂しそうに言ったので、私は「まあでも」と反論した。
「曲の問題じゃない、大切なのは届けようとする気持ちだって」
「おじいちゃんが言ってたんでしょ」
あすかに先回りされる。私は、まいりましたと言わんばかりに強く頷いた。
私がピアノを弾く時に心掛けていることは、どれもこれも藍森先生の教えだ。
「うん」
笑い声がいつまでもこだまする。
「私、風音のピアノ好き」
あすかが言った。さっきまで泣いていたのが嘘みたいな、優しく、落ち着いた声だった。笑いつかれた後の、呆れたような声でもあった。目を見ると、にこっと笑う。頬がうっすら赤らんでいる。私はびっくりして声が出なかった。音楽ってこういうものなのかと感動する。
心臓がとくとくと打つのを感じた。高揚感で頭がぼんやりとする。「嬉しい」なのか「楽しい」なのか、自分が感じているものがどんな感情なのかわからない。あらゆる気持ちが水彩画のようにかき混ぜられて、宙を浮いているような感覚だ。
「また聴かせて」
あすかが微笑んだ。目の端で、乾いたはずの涙が輝いている。また胸が高鳴った。
ああ私は。と、まだうるさい心臓で確信した。私はこの瞬間のために、生きてきたんだ。ピアノを弾き続けてきたんだ、と。
ピアノを諦めなくて良かった。今まで感じていた不安や焦燥が決壊して、私の目からは涙が滝のように流れ出た。
今までの出来事が一気にフラッシュバックする。やめたい理由を上手く言えないのは苦痛だった。弾くのも、教室に行くのも、練習も、習い事をしているという事実も、全部煩わしかった。嫌いだった。でもそれが、自分の中で言葉にならなかった。
何年も、ピアノに触れない期間があった。そんなときに紙で鍵盤を作って、馬鹿みたいに弾くふりをした。それでも、どうしてか楽しくて、鍵盤をおさえるだけの練習を、必死になってしていた。食らいつくように夢中になってやった。音を想像しながら、自分には弾けないと遠ざけていたクラシックをいくつか覚えた。もうその時には、ピアノは私にとって幻想のようなものになっていた。
それが、あすかに変えられた。あすかのおかげで、ピアノの音を思い出した。自分の音色を知ることができた。
一度嫌いになったはずのピアノが、また好きになっていた。
ピアノを諦めなくて良かった。習っていたのをやめたからって、ピアノと縁を切ることがなくて良かった。あすかに出会えて良かった。本当に。心から。良かった。
大切な人に音が届くこと。その気持ちを好きだと言ってもらえること。また聴かせて、と期待されること。
音楽を愛する上で、幸せとはこういうことを言うんだと思った。
今の私は、ピアノに、音楽に、こんなにも支えられている。
エピローグ
別れの季節がやってきた。中学生が終わり、別々の高校に進むことになった私たちは、もう二度と一緒に放課後を過ごすことはなかった。
高校生になってから、両親に何度もお願いしてピアノを買ってもらった。家に初めて置いた時は、すこぶる感動した。七年前にピアノを売ってからがらんどうになった部屋が、再び命を宿したように思えた。
紙のピアノは、中学卒業と同時に押し入れにしまった。あすかとの思い出だけを、ずっと封じこめておきたかったからだ。必要なくなったというのもあるけれど。
現在、私は調律師になるために勉強している。あすかはプロのピアニストになるために本気で鍛錬しているそうだ。職業柄、どこかで出会えることがあるんじゃないかと、期待している。
夏のある日、私はピアノを弾いていた。自分で作った曲だ。あれ以来、オマージュだけでなく、一人で一から作ってみるのも得意になった。
ふと、スマホから着信音が鳴った。弾いていた手を止める。画面を見ると、あすかの文字があった。卒業式に電話番号を交換して以来、初めての電話だった。
何事かと、私は電話に出る。「もしもし」と焦りながら訊くと、あすかの少し大人になった声が、安心をいっぱいに感じられる声が聞こえた。
「おじいちゃんが見つかったよ」
人生で初めての挫折は九歳の時だった。
習っていたピアノをやめたことだ。もっとも、私自身はこのことを挫折だなんて思っていなかった。周りの大人が私のことを「中途半端に諦めた根性のない子ども」だと心の中でみなしているのが段々わかってきて、自分でもそうなのかもしれないと思ってしまった。
やめて良かったと思っている。習うのも継続するのも、私には向いていない。ピアノ教室に毎週通っていたという過去は、一刻も早く消し去ってしまいたいものだった。
けれども、私はピアノに未練があるようだった。やめてから数年経っているというのに、気づけば机の上で指が動いているし、頭の中ではかつて弾いたクラシック曲が、激しく鳴り続けているからだ。
ある時私は、ピアノへの執着のあまりみすぼらしい行動に出た。どうしてそんな発想に至ったのかはわからない。ダンボールと画用紙をはさみで切り、のりで貼り付けるという作業を、夢中になって繰り返していた。
出来上がったのは、ピアノを模したダンボールだ。鍵盤の位置や大きさだけは絶妙に再現されているが、指を置いても何も鳴らないし、押している感覚もない。ただ、ピアノを弾いていた頃の気持ちを、忘れないでいることだけができる。
私には。意気地なしの私には、それで充分だった。
ピアノをやめて五年。紙のピアノだけを頼りに、私は鍵盤の思い出を記憶し続けた。
第一章
通っていたピアノ教室は、家から徒歩十五分のところにあった。高級住宅街の端のほうで、こぢんまりと開かれていたものだった。「あいもりピアノ教室」と書かれた青い看板の光景を、今でも鮮明に覚えている。毎週それを見るたびに、レッスンの曜日の火曜日であることを実感した。
講師の先生は、還暦を迎えたお爺さんだった。藍森先生と呼ばれるその人は、一秒間に何度も音を鳴らすようなクラシックを、ごつごつとした大きな手で豪快に演奏した。先生の演奏は、遠くの海へ船出する漁師の心境を映したような、そんな音色をしていた。どこにでもいるようなお爺さんという印象からは、想像できない世界観を作り出す人だった。
初めてピアノを、グランドピアノを弾いた日、私は六歳だった。レッスンの途中、送り迎えをしてくれた母は、私が無礼を働かないかを教室の端で見ていた。背後から緊張感が伝わってくる授業参観のような感覚に、とにかく嫌悪したのを覚えている。
最初に鳴らした音は「ド」だった。鍵盤の真ん中にいる誰もが知るその音に、私もそこで初めて出会った。
「ドの音を弾いてみてください」
藍森先生が言った。私は、ピンと伸ばした人差し指で、言われた通りに音を鳴らした。
ドの音が鳴った。
「次はレです」
隣に指を動かす。
レの音が鳴った。
「次は……」
そんな風にして、色々な音を弾いた。藍森先生はなんでもすぐに褒めてくれた。嬉しくなった私は、どこかで聴いたきらきら星を勝手に演奏した。
先生は優しく微笑んで、私の拙い演奏にたくさんの褒め言葉をかけてくれた。ありがとうさえも器用に言えない子どもだった私だが、夢中になって鍵盤を押し、どうにか感謝の気持ちを伝えたつもりになっていた。
当時のことを思い出す。
藍森先生はいつも真摯に教えてくれた。うまく弾けなかったからといって、怒られることも突き放されることもなかった。
だから、ピアノをやめたという事実が、挫折したという過去が、五年経った今でも私の心を縛り続けている。
中学二年生になって初めての音楽の授業があった日、音楽室にリコーダーを忘れてしまった。気づいた瞬間、どっと冷や汗が出た。やっぱり自分はダメだという嫌悪感と、リコーダーに対する罪悪感に苛まれる。
終礼が終わると、リコーダーをとりに急いで音楽室に向かった。
鍵は開いていた。失礼します、と唱えるように小声で言い、ゆっくりと足を踏み入れた。
誰もいなかった。窓の外から運動部の掛け声は聞こえてくるが、部屋の中では自分の足音以外、なんの音もしない。
奇妙な空気にしばらくあっけにとられた後、自分が座った机の中を確認した。リコーダーはいとも簡単に見つかった。
そのまま帰るはずだった。
目が眩んでしまった。音楽室でしか見られないグランドピアノの存在が、どうしても気になった。背後から感じる強い魔法を、無視することはできなかった。
少しだけなら弾いてもいいか、と私の中で悪魔が囁いた。
最後に本物のピアノに触ったのは、もう何年も前のことだった。当時の記憶を思い出しながら、慎重に鍵盤の蓋を開けた。艶やかで美しい鍵盤が顔を出し、早く弾きたくてたまらなくなった。
先生に許可を取らなくてもいいのかと、後ろ髪を引かれる思いで椅子に座る。鍵盤に手を置く。久しぶりにした動作だった。そのままドの音を鳴らす。
と―――――――ん。
音が一つ、まっすぐに響いた。夢中になって、レの音もミの音も鳴らした。誰もいない音楽室と、ピアノの音が穏やかに共鳴した。
いつも紙のピアノで弾いている曲を演奏してみた。何かの映像で耳にしたクラシックだ。コマーシャルだと思う。初めて聴いた時、故郷のような安心感と美しさを抱いた。重厚な低音と細かく繊細なメロディーは、グランドピアノのために作られた曲としか思えない。
やはり紙のピアノなんかでは練習にならなかったか、指が思うように動かなかった。小節の中で音がバラバラになり、右手と左手が大きくずれた。まるで他人の手を動かしているようで、気持ち悪い。こんなにも美しい曲を、自分が弾くことでダメにしている、そんな風に思った。
けれども、心の底から何かが湧き上がってくるのを感じた。楽しいとも気持ち良いとも言い表せない感情が、全身を駆け巡った。
頭がぼんやりとしていたが、指が続きの旋律を勝手に紡いでいた。たとえ紙であろうとピアノを練習し続けていた証拠だった。
曲が終わった。興奮して体温が上がっていた。忘れかけていたピアノの感触。まるで夢みたいだった。
数秒間燃え尽きたようにぼうっとしていたが、ふと我に返った。時計に目をやる。四時十五分。ガタッと勢いよく椅子から立ち上がって、出口の方を向いた。
そこに、一人の女子生徒が立っていた。端正な顔立ちは、廊下で何度か見たことがあった。大きな目で私をじっと見ている。
無言のまま見つめ続けられ、耐えきれなくなった私は「ごめん」と発した。
「えっ、何が?」
彼女の両肩で、左右に結われた三つ編みがすっと揺れた。
「えっと、だから、ごめん」
私は深々と頭を下げて、そのまま立ち去ろうとした。困ると謝罪が口をつくのは、幼い頃からの癖だった。自分でも何を言っているのか全く分からない。
「えっ、ちょっと待って」
彼女が私の腕をつかんだ。
「もう一度、聴かせて」
耳を疑う。ピアノのことだと信じられず、私は目をしばたたかせた。
「何を?」
「いやいやさっきの」
自分の拙い演奏を聞かれたという現実に困惑していた。ただでさえ苦手な会話という行為が、地獄のように感じられた。しばらく無言を貫く。
「もしかして、ピアノ?」
「うん」
彼女はにこっと笑った。キラキラと輝くその瞳から、思わず目を逸らしてしまう。
「い、嫌だ」
「えーなんで」
彼女の眉尻が瞬時に下がった。大袈裟なほど肩を落としている。
「どうして聴きたいの」
戸惑いを隠せないまま、私は問うた。そもそも私なんかのピアノを誰が聴きたいと思うのか。突然現れた知らない人に、どうしてそんなものを聴いてもらわなければならないのか。次から次へと疑問が湧いて出た。
「良い演奏だと思ったから」
彼女はまっすぐに言った。目線が合う。時が止まったかと思う程長い間、彼女は私の目を見続けた。
「わかった」
私は諦めて首肯する。
「やったー」
彼女は小さくその場で飛び跳ねた。
さっきと同じ曲を、同じスピードで、同じように弾いた。弾いている時の高揚感、弾き終わった時の達成感は一度目と変わらなかった。けれど、誰かに聴かれているというだけで弾き心地は全く違った。初めてピアノを習った日のことを思い出す。
「すっ、すごい!」
彼女は言葉を知らない幼稚園児のように、同じ単語を何度も繰り返した。
「すごいよ! すごく綺麗」
しばらく賞賛の言葉ばかりが聞こえた。
「あ、ありがとう」
久しぶりにピアノを弾いたというだけで満足だったのに、誰かに褒められると天にも昇る気持ちになった。気が付けば私の顔は火照っていて、引きつった笑顔のまま硬直していた。
第二章
二回目にその少女と話したのは、一週間後のことだった。間抜けなことに、私はまたリコーダーを音楽室に忘れた。
音楽室に近づくと、ピアノの音が聞こえてきた。玄人の演奏だと分かった。お手本のように正確だが、それだけじゃない。森が見える。春を迎えて自由に草木が生い茂っている、深い森のような音をしている。
半ば吸い寄せられるように音楽室に入った。
先生が弾いているのかと思ったが、違った。
弾いていたのは、どこかで見たことのある少女だった。身体の動きに合わせて、三つ編みがゆさゆさと動いている。あの子だ、とすぐにわかった。
心をわしづかみにされた。彼女の音は、優しくも力強いものだった。孤独に咲いているエーデルワイスを思わせるような。でも、曲の雰囲気に応じてじわじわとした温かさも感じられた。そして、藍森先生の音に似ていた。
なんなんだ、と率直に思った。こんなピアノは初めて聴いた。同じ中学生が弾いているなんて信じられない。プロだ、この音作りはプロがするものだ、と震撼した。たとえ鼓膜が破れてもいいから、近くでずっと聴いていたい。
演奏が終わったが、私は感動のあまり拍手を忘れていた。彼女の「うわっ」という声で目が覚めた。
「いたんなら言ってよ」
「あ、ごめん」
びっくりしたー、と彼女はため息まじりに言う。私は思いきり拍手をした。
「す、すごすぎて、演奏が」
「ありがとう」
彼女の感謝はまるで、賞賛されることに慣れているような声色をしていた。
興奮で足元をふらつかせながら、私はリコーダーを取った。足早に出口へ向かおうとする。自分とはあんなにレベルの違う演奏を聴いた今では、冗談でもピアノを弾こうなどとは思えなかった。
「ちょっと待って」
彼女の声にせき止められる。
「私、君に会いたかったの」
どういうこと、というより先に彼女が訊いた。
「名前は?」
にこにこと楽しそうな表情をしている。
「藤野風音」
答えない理由はない。私は淡々と返した。
「私は藍森あすか」
続く彼女の自己紹介。記憶にこびりついたその名字に、心臓が小さく跳ねた。
「えっ、藍森って……」
「もしかして、うちの生徒さん?」
あすかは、自分の家はピアノ教室で、講師は祖父がしているということを説明した。
「もうやめたけど、昔習ってたの」
私が言うと、あすかは驚いた表情で「そうなんだ!」とつぶやいた。
改めて、目の前の少女を見る。この子が藍森先生のお孫さんか。
「だからあんなに上手だったんだ」
「えへへ。ここのピアノ初めて弾いたけど、結構良い音するんだね。前の学校のはやばかったよ。大事にされてないのが丸わかりな音だった」
「前の学校?」
私が訊ねると、あすかは「あー」と間延びした返事をした。
「私、今年から転校してきたんだ」
「そうなんだ」
だから初めて会ったんだ、と私は納得する。
「ねぇ、音楽室のピアノって放課後は勝手に弾いてもいいらしいよ。知ってる?」
「そうなの?」
あすかの表情が、さらにいきいきとしだした。
「だから、これから毎日弾きに来ようと思うの。でも私あの日、君のピアノに惚れちゃって」
あすかは私の目を力強く見据えて言った。
「てことで聴かせて、君の演奏」
そうして、二人でただピアノを弾き合うだけの日々が始まった。終礼が終わったら、かけっこよりも速く音楽室に向かって走った。どれだけ急いでも、いつもあすかのほうが先に来ていた。明日は絶対一番に来る、と言いながら椅子に座る。それが私の日課になった。
どちらかが弾き、どちらかがそれを黙って聴いている、ということがほとんどだった。私があすかの技術に追いつけなかったため、連弾はめったにやらなかった。
あすかのピアノは極上だった。最高のテクニックと、最高の音色をもっていた。こんなものを無料で聴いてもいいのかと危惧してしまうほど。
あすかに色々なクラシック曲を教えてもらった。小学生でもできるような簡単なものから、藍森先生が弾いていたような難しいものまで、あすかは何でも知っていた。一度聴けばすぐに弾けるのだという。その全てを吸収してやろうと、私は真剣に彼女の教えに耳を傾けた。
「ピアノ、いつまで習ってたの?」
ある時、あすかに訊かれた。
「小学三年生まで」
私が答えると、「意外」と返された。
どういう意味での意外なのか、訊こうとするよりも先に、あすかから新たな質問があった。
「どうしてやめちゃったの?」
ああ。私は返答に困った。
やめてから、何度もされてきた質問だった。その度に、私は口をつぐんできた。
私自身がその理由をわかっていない。わからない。あの時はただ、ピアノにまつわるもの全てを嫌いになり、半ば逃げるようにやめた。当時もやめたい理由を上手く説明できず、親や先生に戸惑われ、時に怒られたのを覚えている。
「向いてなかったから」
ひとまず私は、どうとでもとれる答えを返した。
「嘘」
あすかが目を丸くしている。
私は頷いた。
「向いてないなんてことはないと思うんだけどなぁ」
あすかの一言で会話が終わる。
季節をいくつか越えるうちに、私たちは切っても切れない関係になっていた。
「私、転校してきて良かったー。じゃなきゃ風音に会えなかった」
あすかの一言に、私は返す言葉を上手く見つけることができなかったが、うまい具合にはにかんだ。
「どうして転校してきたの?」
なにげなく訊ねる。
「驚かないでね」
すると、あすかが真剣な口調になった。訊いてはいけないことだったか、と心配になる。
前の学校で何かあったとか、家庭の事情だとか、転校の理由として考えられることがいくつかあっただけに、しまったと思った。人は誰にでも秘密にしたいことがある。私は今、それをわざわざ聞き出そうとしているのではないか。後悔の念がじわじわと広がる。
あすかの口から出た答えは、想像の斜め上をいくものだった。
「お爺ちゃんがね、介護が必要になったの」
えっと声が出る。息が止まったような気がした。言葉を完全に理解するのに、数十秒がかかった。
「去年くらいから物忘れがひどくなって、おばあちゃん一人では手に負えなくなったから、私たちがこっちに来ることになった」
あすかは大人のような表情で言う。口角は上がっているけど、目は笑っていなかった。
「そんな、藍森先生が? 元気なの?」
「元気だよ、ぴんぴんしてる。何もかも忘れちゃったけどね、私の名前も覚えていない」
「そんな」
衝撃の連続だった。藍森先生がそんな風になったなんて、信じられなかった。言葉の知識が図鑑のように詰め込まれている脳から、次々と記憶が消えていくなんてありえるか。ましてや孫の名前を忘れるなんて。
生徒の一人でしかない私のことなんて、当然覚えていないんだろうな。寂しさで胸がはちきれそうになった。忘れられてしまったあすかを思うと、もっと悲しくなる。
「でもね」
当の本人はそんなこと気にしていないように笑っている。私は続きに耳を傾けた。
「ピアノは今でも弾いているよ」
「本当?」
良かった、と息に限りなく近い声が漏れた。
「体が覚えてるんだって。昔と変わらず、リストの曲も弾いちゃってるよ。曲名も覚えていないみたいだけど」
「そうなんだ」
「新しい曲も覚えられない」
一瞬希望が見えたが、その言葉にがっかりした。あすかは平気そうにしているが、私は悔しかった。天人のような技量を持つピアニストが、もう前のようには演奏できない。そんなに悲しいことがあるか。
「私、こうなってから考えるようになったんだ」
あすかが言った。
「何を?」
「死ぬっていうこと」
さっと静穏な空気が流れた。
「毎日毎日、できることがどんどんなくなっていくの。私が来たばかりの頃は、電話ができたし、自動販売機でジュースを買うこともできた。今は会話をすることも、文字を書くことも難しくなった。このままいけば、って。怖くなることがあるの。このままいけば、待っているのは死だって」
段々あすかの声が細くなっていった。
「そりゃ、私たちだっていつかは死ぬけど。でもこんな風にしていなくなるって考えると恐ろしくって。今まで存在していたものが、全部消えていく。おじいちゃんの音色を、二度と聴けなくなる日がいつか来る」
やめて、と言いそうになった。聞いているのが辛くなった。あんなに確固として存在していた藍森先生の音が、どこかに消えてしまうなんて、想像するだけで苦しい。
なんと言ってあげるべきか迷った。どうしたら彼女が明るい気持ちになってくれるか。自分が一番辛かった時に、周りの人がかけてくれた言葉を思い出して考えようと思った。
が、私にその経験はなかった。私が人生で一番辛かったのは、ピアノをやめた時だ。当時、励まし支えてくれた人は、いなかった。
当然だ。私は根性のない子どもだったから。やめたのは妥協だから。そうやって色々な人に怒られた。自分で辛かったなんて言うのも、おこがましいと分かっている。
ああ、なんと言ってあげればいいかわからない。「大丈夫」はなにが大丈夫なのか訳がわからないし、「そんなことない」は論外だ。そんなことあるんだから。
迷った私はしばらく黙っていた。みるみるうちに、空気が重くなっていくのがわかった。とにかく私は、自分の思ったことを素直に口にするしか方法がなかった。
「もし藍森先生になにかあっても、藍森先生のピアノの音は記憶の中にずっと残り続けるよ。そういう音色だから。私も、最後に聴いたのは五年前なのに、未だに鮮明に思い出せるの。海の景色」
「海?」
意味がわからないと言わんばかりに、あすかは首を傾げた。
「海の音だよ。藍森先生のピアノは海が見える」
五年前の記憶から、藍森先生の演奏している姿を思い出そうとする。ぼんやりしている部分もあるが、はっきりと覚えているのは、音から想像される海の光景だった。どこまでも青く広がる海。船が豪快に行き交い、波が力強く音を立てる海。穢れも解れも、全てを抱擁する海。海の姿がどうしても見えてしまう。
もう一度聴きたい。今でも強く思う。
「ああ、海か。確かに」
あすかが少し笑って言った。
「私は餅だと思ってた」
「も、もち?」
「うん。つく時、焼く時、食べる時。柔和で力強くて……みたいな? 餅に、似ていないこともないと思うよ」
何それ、私は可笑しくて笑った。飛躍した発想に、笑いが止まらなかった。あすかも一緒に腹を抱えた。
「藍森先生のピアノ、もう一度聴きたいなあ」
笑いつかれた後、気が付けば私は口にしていた。
「だったら、うちに遊びに来る?」
あすかが訊いた。
「えっ、いいの?」
「うん。グランドピアノ弾きにきて。音楽室のよりもずっといいやつだよ。運が良ければ、おじいちゃんの海の音色も聴けるかも」
「本当?」
私は飛び上がって喜んだ。小学生の頃の、遠足の日の前日みたいにワクワクした。藍森先生のピアノを聴けるかもしれないということも、上質なピアノを演奏できることも、遊びに誘ってくれるくらい誰かと仲良くなれたことも、全部嬉しかった。たくさんの喜びに押しつぶされ、酔っ払いのような気分だった。
二日後、私はあすかの家に、藍森ピアノ教室におじゃました。五年ぶりにあの看板を見て、懐かしくなると同時になぜか緊張した。
「おじゃまします」
ピアノがある部屋、つまり教室に足を踏み入れた時、最初に思ったことはなんだか空間が狭くなったような気がする、ということだった。壁までの距離も、天井までの高さも縮んだのではないか、と。しばらく考えて、自分が大きくなっただけだと気づいた。
「なーんだ」
思わず声に出して納得してしまう。
「なんか言った?」
訊きながら、あすかがピアノの蓋を開けた。藍森先生とそっくりの仕草だ。
用意ができたようで、あすかは私に椅子をさし出した。
「どうぞ、懐かしのピアノ」
「ありがとう」
そこに座った途端、六歳の頃の初々しい感じを、切ない程に思い出した。
ドの鍵盤に触れる。
ドの音がする。
隣に指を動かす。
レの音がする。
一音一音の重みがすごい。まるで時が止まったみたいに、空間が静謐(せいひつ)を湛(たた)えている。
私は席を立った。
「え、もう終わり?」
あすかが残念そうに言う。
「もう大満足」
私は答えた。鳴らす音全てが心に沁みて聴こえて、すでに充たされた。
「そっか」
その後、私たちは居間に行った。あすかのおばあちゃんが温かいお茶とお菓子を出してくれたので、しばらくそこで談笑した。
驚いたことが二つある。居間には、大きな本棚とショーケースが設置されていた。
一つ目は、そのショーケースの中に、数えきれない程のメダルとトロフィーが飾られていたことだ。ケースの中が、どこもかしこも金や銀で煌めいていた。
「九割くらいがおじいちゃんの。私のはここにかためて置いてある」
あすかが見せてくれたものの中には、「全国大会優勝」という文字が彫られたものもあった。こんなに凄い子と毎日ピアノを弾いていたんだ……と衝撃が走った。優勝というだけに、ボリュームも存在感も桁違いなトロフィーで、思わず持つ手が震えた。
「やっぱりおじいちゃんには敵わないね」
あすかが自嘲する。
「十分凄いよ……」
全国レベルですら謙遜する慎ましさに、私は感嘆することしかできなかった。
でも確かに、藍森先生のトロフィーたちは凄かった。世界という文字が刻まれたものもあり、量もとんでもない。
「やばい」と思わず乾いた笑いがこぼれた。
驚いたことの二つ目は、本棚の中に大量の楽譜がしまわれていたことだ。ピアノを習っていた時に見たことのあった、レッスン用の基礎などが載ったものや、分厚い楽典の本もあったが、私がたまげたのはそれらが理由ではない。
手書きの楽譜が何百枚もあった。目を疑った。あすかに訊くと、藍森先生が作曲したものだとわかった。
「とんでもない量」
「本当にね。若い時は毎日新しい曲が浮かんできてたみたい。しかも全部最高の曲」
あすかの言葉に偽りはなかった。楽譜を手にとり、頭の中で音を並べてみると、幻想的なメロディがいくつも聴こえた。本当に聴いたら、きっと耳がとろけてしまうと思う。藍森先生の並外れた才能に感服だった。
「これ、弾きたい、全部弾いてみたい」
胸の奥から何か熱いものが上がってくるような感じがした。頭の中が、藍森先生への憧憬でいっぱいになった。私もこんな曲を弾いてみたい。作ってみたい。音楽の難しさを承知してはいても、やってみたいという気持ちばかりが募り、うずうずする。
「すごい量だよ。譜読みだけで何万回と日が暮れそう」
あすかが冗談を諭すように言ったが、私は本気だった。心の底から藍森先生の音楽に触れたくて仕方がない。
「だったら、明日から毎日ひとつずつ持っていくよ。一緒に弾こう」
あすかはそう言ってくれた。私は喜んで頷いた。ありがとう、と精一杯言った。
その後も、同じようにおしゃべりをして過ごした。藍森先生のピアノを聴けるだろうかと終始期待していたが、残念ながら今日は体調がすぐれなかったらしく、会うことすらできなかった。
家に帰り、私は久しぶりに紙のピアノを使った。藍森先生の楽譜に並んでいた旋律を、弾いてみたらこんな感じだろうかと、指を動かしながら想像した。
藍森先生にピアノをやめると挨拶してから数年が流れた。また会いたいと切実に思う。けれども、大量の曲に触れたことで、師の心を垣間見たような気になった。達成感と充足感で夢見心地だった。それはもう、会ったも同然のことだと私は思った。
それから毎日、あすかは約束通りに楽譜を持ってきてくれた。それを読み解き奏でる日々は、幸せ以外の何物でもなかった。段々弾ける曲や聞き取れる和音の数が増えていき、私は音楽がもっと好きになっていった。そして、ピアノが好きだと思えるようになった。
だからかは分からないが、気が付けば紙のピアノに触れることはなくなっていった。
私たちは三年生になった。
第三章
初めてあすかが音楽室に来ない日があったのは、五月の初め頃のことだった。最終下校を促すチャイムが鳴るまで、私はあすかを待っていたが、音楽室に彼女が現れることはなかった。
翌日、休み時間に理由を訊きに行くと、家の用事とのことだった。彼女のほうも詳しくは言わなかったし、私も訊かなかったので、会話はそれで終わった。そうして、あすかが音楽室に来ない日がだんだん増えていった。
きっと何か大変なことがあるのだろう、と私は察せられるだけ察した。もしかしたら悩んでいることがあるのかもしれない、とも思った。心配でそわそわしながら、一人ピアノを弾いて待ち続けた。
二週間程経った頃、あすかは学校にも来なくなった。彼女の担任に理由を訊くと、「藍森さんは休みです」と返される日が何日も続いた。何もできなかった私は、ただ待つしかなかった。最初は気を紛らわせるためにピアノを弾いていたが、次第にそれもしなくなった。
一か月が経ち、今日もまた待つだけかと憂愁に沈んでいると、あすかが学校に来ていることに気が付いた。
廊下で彼女の姿が目に入った瞬間、安堵が胸にひろがった。これでまた一緒にピアノが弾ける。これまでの寂しさが嘘みたいに感じた。「やっほう」と声をかけると、あすかは小さく微笑んで会釈をした。
疲れているようだった。前よりもやつれて見え、目も腫れぼったい気がした。
放課後、私たちはピアノの前に集った。もうそれだけで嬉しかった。二人とも、しばらく無言のまま鍵盤を見つめていた。沈黙に耐えきれなくなり、私はテキトウに白鍵をポチポチ鳴らし始めた。
「ごめんね」
あすかが口を開いた。「何が?」と私が問うと、虚ろな目でぼそぼそと話す。
「ずっと、来れなかったこと」
私は「大丈夫」とできるだけ力強く返した。
何があったのかは、訊かなかった。嫌な予感があって、的中するのが私も怖かった。もしかしたら。もしかすれば。
藍森先生に、何かあったのではないかと。
恐ろしい想像が、頭の中を目まぐるしく回った。
また沈黙が流れた。私はピアノを弾き始める。この数週間、少しだけ練習していた曲だ。弾き終わると、あすかが小さく拍手した。初めて会った時の、はつらつとした拍手とは程遠い、弱々しいものだったけれど、演奏に賞賛を贈ってくれたことに、私は嬉しくなった。
もう一曲弾く気にはなれず、私は無言で座っていた。
「嫌なことがあったの」
あすかが言った。注意しなければ聞き取れない程か弱い声だった。
「何か、わかる?」
「わからない」
私は即答した。本心では全く分からないわけではなかったが、頭が分かることを拒否しているような感覚があった。
「言ってもいい?」
少し考えて、いいよと言った。あすかが安心できるように微笑もうと心掛けたが、唇の端がぎゅっと縮こまっただけだった。
「あのね——」
私はてっきり、藍森先生が亡くなったのだと思っていた。あすかの絶望的な様子から察するに、そうに違いないと勝手に思っていた。
けれどそれは、とんだ勘違いだった。
「いなくなっちゃったの」
彼女は、藍森先生が行方不明になったのだと話した。まるで小説のあらすじを説明するかのように淡々とした口ぶりだった。あすかのピアノのコンクールがあった日、演奏後の写真撮影の時に、気が付けばいなくなっていた。瞼を閉じるくらいほんの短い時間の間に藍森先生は姿を消していた、と。
「もう一か月以上経つの。どこかで息が止まってるんじゃないかって」
あすかは小さく泣き始めた。もう何度も泣いているんだろうなと思った。泣くことにすら疲れや呆れを感じているようだった。
「今までは平気だったことが全部涙になってでてきて、それで、それで」
あすかは肩を激しく上下させ、苦しそうに泣いた。
このままいけば、待っているのは死。あすかが言っていたことを思い出す。いけない、そんなことを考えてはだめだ、と自制しようとしても、残酷な想像は歯止めがかからない。
私も、泣いた。
藍森先生のレッスンの光景を思い出す。優しくて、情熱的な人だった。だからあすかがこんなに悲しんでいるのだとわかる。
私は一度ピアノが嫌いになった。でも、大嫌いにはならなかった。理由はきっと、初めて出会ったピアニストが藍森先生だったからだ。藍森先生は、いなくなっていいような人ではない。断じてない。
「あなたの大切な人は誰ですか」
レッスンの時、ふいにそんな質問をされた。私が突然のことに戸惑っていると、藍森先生はさらに説明を続ける。
「聴いてくれる人のことを考えながら弾いてごらん。どんな気持ちになってほしいのか、想像してみて。家族、友達、身近な人がいいと思う」
先生は私に、考える時間をくれた。答えるのを待っていてくれているのだと、幼い私にもわかった。なんとか期待に応えようと、私は考える。
数十秒を要して結論を導き出し、私は思った通りに口にした。
「いません」
あすかは毎日音楽室に来てくれた。でも、以前のように和気あいあいと弾くことはできなくなっていた。暗い顔で椅子に座り、ただ時間が流れるのを待っていた。私のほうも気が乗らなくて、鍵盤に手を置いたりはずしたりを繰り返してばかりだった。毎日がそんな風になった。
あすかのために何ができるだろうかと、必死になって考えた。答えは出ない。依然として出ない。でも、それでへこたれてはいけないと、誰に教えられるまでもなく思った。
何度も思い悩んだ末、私は彼女に贈り物をすることにした。それで彼女の元気が戻るかは分からない。でも、ほのかな希望にかけてみることにした。音楽の可能性にかけてみることにした。藁にも縋る思いだった。
第四章
「これどうぞ」
昼休み。折り紙で作った稚拙なものを渡しに、私はあすかのところへ行った。
「なにこれ」
予想通りの反応だった。慣れないことをする恥ずかしさで、顔が赤くなる。
「招待状」
私は答える。
「チケット」と鉛筆で書かれた紙を見つめて、あすかは訳が分からないという顔をした。
「何これ。え?」
「放課後のお楽しみ」
なんだか今になって逃げ出したい気持ちになり、いたずらを仕掛ける子どものように笑った後、私は走って自分の教室に帰った。生まれて初めて、緊張というものを知った。
あすかはいつもよりも数分はやく来てくれた。
「何をするの?」
訝しげに訊かれる。うん、と私は意味もなく頷いた。
「私ね、曲を作ったの」
「曲?」
チケットを頂戴致します、と私は面白おかしく声を作って言った。あすかは釈然としない表情でそれを渡す。コンサートの始まりだ。
私はピアノの椅子に座った。譜面台にそっとチケットを置く。鍵盤に手をのせる。何度もしたことのある動作だったが、いつもの何十倍も緊張感があった。
ピアノのことを忘れようとした時期があったために、私には発表会の記憶がなかった。自分が何を弾いたのか、どんな服を着たのか、何ひとつ覚えていない。心をこめた演奏を誰かにきちんと聴いてもらうのは、初めてだと言ってもおかしくなかった。
音符一つ分、息を吸う。
そうして私は弾き始めた。自分で作った曲。海の曲だ。
さざ波の旋律が始まる。ゆっくりと。けれど曲は確実に進んでいく。透き通った高音部を、十六分音符が行ったり来たりする。時々ある二拍三連符が、海の規則正しい流れをせき止めるようで不自然だ。でもどこか美しい。意図した構想だった。不安定さが寧ろ美しいバラードは、藍森先生特有の音楽だ。あすかに見せてもらった楽譜から分析した。藍森先生は、ベースの進行は同じのまま、和音だけ劇的に変化させていくという癖を持っている。単純な音の重なりが、だんだん複雑で妖艶な響きになっていくにつれ、聴衆は心を鷲掴みにされる。もっと良いのは、誰にも書けないであろうメロディーだ。どんな人生を生きたらこんなものが降ってくるのかと思うほど、藍森先生のつくる旋律は極上だった。次の音が予測できない。でも、一度聴いたらまた聴きたくなる。
そんな魔法みたいな音楽が、どの楽譜にも共通して存在していた。
ピアノがどんどん音を紡ぐ。どこまでも広がる海の青さ。とまらない、とまらない。藍森先生の演奏を思い出しながら弾く。
人生で初めての作曲だった。できるだけ藍森先生の世界観を投影できるようにと、考えて楽譜を書いた。あくまでもそういう意志の、藍森先生への尊敬を込めた曲だからだ。とにかく難しかった。藍森先生がいかに類いまれな才能を持っていたかがよくわかった。
「あなたの大切な人は誰ですか」
藍森先生の言葉が脳裏をよぎる。当時は想像できなかったものが、形を帯びて、頭の中に浮かぶ。
大切な人はあすかだ。音を届けたいと思う相手は、あすかだ。心が熱くなっていく。自然と音に魂がこもった。
荒波を乗り越え、音はやがて静かになっていく。波は命を鎮めるかのように、静かに揺れる。揺れて、揺れて、揺れて、春のような穏やかな終焉が訪れる。
曲が終わった。
ふっと顔をもたげると、あすかが声も出さずに泣いていた。静かに涙が頬を伝っていく。私と目が合うと、彼女はゆっくりと両の手を叩き始めた。
「おじいちゃんだ」
あすかはつぶやいた。
「おじいちゃんの音楽だった」
私は嬉しくなった。大成功だ。
「本物だよ。本物だ……」
あすかはまた泣いた。今度はひくひくと啜りながら。「ありがとう」とかみしめるような声。
「こちらこそ、ありがとう」
私は心をこめて返事した。
プレゼントだと言い、手書きの楽譜をあすかにあげた。思い出を写真として残すように、今日私が奏でた音楽も、形にしたかった。
「ありがとう」
あすかは潤んだ瞳のまま、笑った。
「作曲はよくするの?」
「ううん、初めてした」
「え、すごっ。やっぱり風音は才能あるよ」
「まあ、パクリみたいなものだから」
「新曲できたら、今度聴かせて」
「うん」
放課後の音楽室に響く会話。二人だけの世界。私の好きな時間だ。
「あんなに感動する曲、私じゃ作れないな」
あすかが寂しそうに言ったので、私は「まあでも」と反論した。
「曲の問題じゃない、大切なのは届けようとする気持ちだって」
「おじいちゃんが言ってたんでしょ」
あすかに先回りされる。私は、まいりましたと言わんばかりに強く頷いた。
私がピアノを弾く時に心掛けていることは、どれもこれも藍森先生の教えだ。
「うん」
笑い声がいつまでもこだまする。
「私、風音のピアノ好き」
あすかが言った。さっきまで泣いていたのが嘘みたいな、優しく、落ち着いた声だった。笑いつかれた後の、呆れたような声でもあった。目を見ると、にこっと笑う。頬がうっすら赤らんでいる。私はびっくりして声が出なかった。音楽ってこういうものなのかと感動する。
心臓がとくとくと打つのを感じた。高揚感で頭がぼんやりとする。「嬉しい」なのか「楽しい」なのか、自分が感じているものがどんな感情なのかわからない。あらゆる気持ちが水彩画のようにかき混ぜられて、宙を浮いているような感覚だ。
「また聴かせて」
あすかが微笑んだ。目の端で、乾いたはずの涙が輝いている。また胸が高鳴った。
ああ私は。と、まだうるさい心臓で確信した。私はこの瞬間のために、生きてきたんだ。ピアノを弾き続けてきたんだ、と。
ピアノを諦めなくて良かった。今まで感じていた不安や焦燥が決壊して、私の目からは涙が滝のように流れ出た。
今までの出来事が一気にフラッシュバックする。やめたい理由を上手く言えないのは苦痛だった。弾くのも、教室に行くのも、練習も、習い事をしているという事実も、全部煩わしかった。嫌いだった。でもそれが、自分の中で言葉にならなかった。
何年も、ピアノに触れない期間があった。そんなときに紙で鍵盤を作って、馬鹿みたいに弾くふりをした。それでも、どうしてか楽しくて、鍵盤をおさえるだけの練習を、必死になってしていた。食らいつくように夢中になってやった。音を想像しながら、自分には弾けないと遠ざけていたクラシックをいくつか覚えた。もうその時には、ピアノは私にとって幻想のようなものになっていた。
それが、あすかに変えられた。あすかのおかげで、ピアノの音を思い出した。自分の音色を知ることができた。
一度嫌いになったはずのピアノが、また好きになっていた。
ピアノを諦めなくて良かった。習っていたのをやめたからって、ピアノと縁を切ることがなくて良かった。あすかに出会えて良かった。本当に。心から。良かった。
大切な人に音が届くこと。その気持ちを好きだと言ってもらえること。また聴かせて、と期待されること。
音楽を愛する上で、幸せとはこういうことを言うんだと思った。
今の私は、ピアノに、音楽に、こんなにも支えられている。
エピローグ
別れの季節がやってきた。中学生が終わり、別々の高校に進むことになった私たちは、もう二度と一緒に放課後を過ごすことはなかった。
高校生になってから、両親に何度もお願いしてピアノを買ってもらった。家に初めて置いた時は、すこぶる感動した。七年前にピアノを売ってからがらんどうになった部屋が、再び命を宿したように思えた。
紙のピアノは、中学卒業と同時に押し入れにしまった。あすかとの思い出だけを、ずっと封じこめておきたかったからだ。必要なくなったというのもあるけれど。
現在、私は調律師になるために勉強している。あすかはプロのピアニストになるために本気で鍛錬しているそうだ。職業柄、どこかで出会えることがあるんじゃないかと、期待している。
夏のある日、私はピアノを弾いていた。自分で作った曲だ。あれ以来、オマージュだけでなく、一人で一から作ってみるのも得意になった。
ふと、スマホから着信音が鳴った。弾いていた手を止める。画面を見ると、あすかの文字があった。卒業式に電話番号を交換して以来、初めての電話だった。
何事かと、私は電話に出る。「もしもし」と焦りながら訊くと、あすかの少し大人になった声が、安心をいっぱいに感じられる声が聞こえた。
「おじいちゃんが見つかったよ」